幸村への報告を配下のしのびに任せ、佐助は単身で奥州に向かうことにした。 奥州は雪が降っていた。見渡す限りに延々としろく、風が強いので顔にぷちぷちと雪の玉が当たる。 皮膚が凍り付くように固まって、寒さよりは痛みをより強く感じるような気候だった。 さすがに手元がすこし冷えて、佐助はてのひらを擦り合わせる。 小十郎の屋敷の屋根の上で見上げる空は厚い雲に覆われ、昼間なのに重苦しい。瓦に腰掛け、鴉を傍 らに引き寄せる。冷えた羽根の感触と、その奥にある生きた肉のぬるまったさが同時に伝わってきた。 右目の旦那はいつ帰ってくるかな、と鴉に問う。すると鴉は首を傾げて見せたので、佐助はくつくつ と喉を鳴らし、鳥の頭をぐりぐりと乱暴に掻き混ぜてやった。 そりゃ、おまえに解るわけねえやな。 冬は冬できっと家老は忙しいのだろう。春も夏も秋も矢張りそうであるように、あの男は常に忙しい のだ。佐助は息を吐いた。しろく曇るかと思ったそれは、体が冷え切っているので外気に溶けて残ら ず消えていく。カアンと鐘が鳴った。正午を知らせる鐘である。 もうひとつ鐘が鳴ったら帰るか、と佐助は空を見ながら考える。 いざ奥州まで来てみたら、途端に佐助は怖じ気づいている。 会いたいという感情が消えたわけではない。それ以上に、自分の求めるものとは異なるものになり果 ているであろう片倉小十郎の姿がおそろしい。 彼は佐助の姿を見たらどんな顔をするだろう。 苦虫を噛み潰したような顔をして、唾でも吐いてくれればいいのだけれども。 佐助はまた息を吐いた。肩に積もった雪を払い、身をちいさく縮めて鴉の頭に額を乗せる。きんと冷 えた空気には一切のぬるまったさが消えている。 奥州の冬だ、と佐助は思う。 かつての彼のような、と続けて佐助は思う。 「―――さむ」 そういう温度であってほしいと思うのは自分の我が儘だろうか。 そうなのだろう。 そうなのだ。 ぜんぶ佐助の我が儘なのだ。 小十郎がいくら嫌がっても傍に寄っていたくせに、いざ彼がこちらを見たら寄るなと拒絶するという のは、どう考えても勝手すぎる。小十郎が怒るのはもっとものことであるし、なによりも彼は最後に は怒ることすら止めてしまって、―――きっとほんとうは、片倉小十郎という男はやさしい男なのか もしれない。すくなくとも不人情にはなれぬ男なのだろう。佐助が考えているよりもずっと、その内 側にある熱量は多いのかもしれない。 しくしくと傷が寒さで痛んだ。 でもそんなものは佐助は知らない。 知らないので、見せてくれなくてもいいと言ったら、――― 矢張り小十郎は怒るだろうか? ぼうと空を見ていたら、足下にかつんと石が投げつけられた。 抱えていた鴉が空へと飛び立つ。佐助は黒い鳥の影を追って、それから視線を屋根の下に落とした。 石がもうひとつ飛んでくる。鋼の具足に当たって石がかつんと音を立てる。 小十郎が腕を組んで佐助を見上げている。 「右目の旦那」 声に出して彼を呼んでから、思ったよりも動揺していない自分に佐助は軽く驚きを感じた。 小十郎は佐助の声には応えずに、ちらりと眉を寄せると庭から直接縁側へあがっていった。佐助は屋 根から降りて、小十郎の背中を視線で追った。小十郎は障子を背に相変わらず腕を組んで突っ立って いる。耳が赤くなっていて、ひどく寒そうだった。 中に入ったら、と佐助はとりあえず言ってみた。 「寒いでしょう」 「べつに」 小十郎は短く応え、息を吐いた。 しろく残る息のかたちと、久々に聞いた低い声に、佐助は寒さとは異なるものでふるりと背筋を震わ せた。小十郎がそれを見留めて、寒いか、と問う。佐助は黙って首を振った。 ふたりの間に、はらはらと粉雪が降っている。 小十郎の姿が近い癖に、いやに朧に見えた。 「久しいね、どうも」 何を言っていいのか解らなかったので、佐助はそう言ってへらりと笑ってみる。 小十郎は矢張り何も言わない。黙ったまま佐助を見ている。あるいは彼は佐助の前に振り続けている 雪の粒を見ているのかもしれなかった。曇った空からはひかりが落ちてこない。だから小十郎の目の なかにもまるでひかりが見えず、ただただ黒く見えた。 随分長い間、そのままふたりは対峙していたのだと思う。 佐助は小十郎のひかりのない目に見とれていたので、あまり時を感じなかった。小十郎はおそらく佐 助の言葉を待っていたのだろうけれども、あんまり長く佐助が呆けているので、とうとう我慢が切れ たらしい。口を開いた。 何をしにきた、と問う。 「あんたに会いに」 佐助は間髪入れずに応えた。 何はともあれ、それは事実だったのだ。 小十郎は顔を歪めかけたが、すこし痙攣させただけですぐに元の厚い皮を張り直した。佐助を見ない ように視線を逸らし、冷え切った縁側の床を睨んでいる。そんなものを睨むくらいならこちらを睨ん でくれればいいものをと佐助は思ったが、言わないでおいた。 小十郎が黙ってしまったので、今度は佐助が口を開いた。 「あんたに会いに来たんだよ。あんたにどうしても会いたくッて」 でも口から出たのは詰らない、先刻の繰り返しに過ぎなかった。 佐助は思わず舌打ちをした。もうすこしましな言い回しが出てこない自らの舌が忌々しい。もっと気 の利いた台詞で、小十郎の気を惹きたいのにどうにも上手くいかない。 佐助は相変わらず笑みを顔に貼り付けながら、戯けた調子で肩をひょいと上げた。 「あんたは信じてくれやしねえでしょうけど、この一年、ずっとあんたのことを考えてたンだぜ」 小十郎は矢張り何も言わない。 佐助は言葉を続けた。最後にあんたが言ったことも、きちんと考えたよ。きっとあんたはもう俺にな んぞ会いたかないでしょうけど、ねえ、 俺はでも、あんたにさ。 「会いたくッて仕様がなかったんだ」 一歩前に出て、腕を伸ばす。 小十郎の腕を掴もうとすると、ふとその先の顔が歪んだ。佐助は思わず手を引こうとしたが、その前 に小十郎の腕にそれを取られた。小十郎は顔をしかめて佐助の右腕を睨んでいる。 次いで小十郎のてのひらが右肩にかかって、佐助は咄嗟に眉をひそめてしまった。 「―――鉄臭ェ」 吐き捨てるように言って、小十郎は佐助を縁側へと引き上げた。 ぴりぴりと傷が引き攣れて痛みがはしる。小十郎はそれも構わず佐助の腕を引っぱり、障子を開いて その先に放り投げる。佐助が呆然としている間に小十郎はどこかへ行ってしまって、またしばらくす ると戻ってきた。小十郎の手には真新しい晒と薬嚢が握られている。 「脱げ、阿呆」 小十郎は吐き捨てて、それから佐助の胸に思い切り蹴りを入れた。 小十郎は黙って血みどろになっている佐助の腕の晒を解き、濡れた手拭いで患部を拭い、薬を塗っ ている。佐助は小十郎を眺めながら、血の匂いをつけたままここまで来てしまった自分自身に呆然 としていた。どうかしている、と佐助は思った。 そんなへまをしたことなんて今迄一度だってありはしなかったのだ。 嗚呼、俺はどうかしている。 佐助は眩暈を感じて、くらりと上半身を揺らした。 「どうした」 「なんでもない」 小十郎が問うので、佐助は笑って首を振った。 器用に巻かれた晒は、それでも佐助が巻くよりは歪んでいた。佐助は小十郎に礼を言った。小十郎 は仏頂面で、血塗れの晒をくしゃくしゃと丸めて矢張り床を睨んでいる。 佐助は切なげに目を細め、小十郎を眺める。 矢っ張り小十郎はもう佐助の望むものではないんだろう。 「あんたに」 それでも佐助は口を開き、小十郎と目が合うとへらりと笑った。 「あんまりあんたに会いたかったから、そればっかり考えてて、血の匂いのことなんぞついぞ思い 出せなかったよ。やれやれ、こいつはしのび失格だねえ」 小十郎は微妙な顔をして、佐助を見ている。 そんな顔をしないでおくれよ、と佐助は矢張り笑いながら言った。そんな顔をしないでおくれ、右 目の旦那。あんたはそんな、腹に何かを抱えておけるようなおひとじゃありますまい。 「ね、右目の旦那。些っと俺様の話を聞いてくれない?どうしてこんな傷を負っちまったかさ、こ いつがなかなか笑える話なんだぜ。この猿飛佐助ともあろう者がさ、どうも女を庇ってこの様な わけなんだけど、ま、それだけなら俺様の武勇伝のひとつなんだけどね―――」 ところが助けた女がさ、必死で俺の命を救おうとするンだ。 佐助はけらけら笑いながら、格好付かねえったらねえや、と首を傾げて見せる。 「泣いてさ、なんであんなことをしたんだ、死んだらどうするんだと、まあそう仰る。笑えるよな。 死んだらどうするって、そんなの死んだら死んだまンまさ。それ以外にゃどうもなりますまいな。 まったく馬鹿げた質問でしょう。でもさ、実際の話、世の中には、そういう当然のことが解って ない馬鹿な御方らがわんさかいらっしゃるンだな、これが。困ったことに。ほんと、困っちまい ますよね。まったく、実際のところさ」 それでね、と佐助は晒を弄っている小十郎の手を握った。 これは俺の我が儘だろう、と佐助はそうしながら考えた。これは完璧に、ただただ俺の我が儘だ。 小十郎は仏頂面をして佐助を睨み付けている。佐助は困ったように笑みを浮かべる。 嗚呼、矢っ張り、ほらあんたはそんなに辛そうな顔をしてるンだもの。 佐助はかすかに胸を痛めた。 小十郎がとても可哀想だと思った。 「あんたに会いたくなっちまったの、途方もなく」 笑みは崩さず、強く小十郎の手を握り締める。 「だってあんたは誰よりも知ってるでしょう、そういうの、馬鹿馬鹿しいってことをさ」 だからすきさ、右目の旦那。 歌うように言って、佐助は小十郎に口付けた。 小十郎はすっと身を引いた。拒絶というほどの勢いはそこには存在しなかった。かすかに空いたお 互い隙間で、佐助はまたちいさくつぶやいた。 俺はね、と言う。 俺はときどき忘れちまうンだ、困ったことに。 「死んだ後にはなンにも残らないのが当然ってさ、忘れそうになる」 でもそれじゃ辛いでしょ。 実際にはなンにも残りゃしねえンだから、覚えてなけりゃおかしくなっちまうでしょ。 「きっとあんたは、そういうことをとてもよく知ってるからさ」 狡いことを言っている。 とても卑怯なことを自分は言っている。 佐助はそう思った。思いながらまた小十郎の唇に自分のそれを重ねた。小十郎と目を合わせる。 小十郎はとても歪んだ顔をしていた。佐助は目だけでちらりと笑い、一瞬だけ唇を離して、息を吐 くようなかすかな声で、あんたがすきだよ、と言ってやる。 ますますひどく小十郎の顔が歪む。 佐助は重ねるように、あんたがすきだと繰り返した。 「―――それは」 小十郎が重々しく口を開き、忌々しげに唇の端を歪めた。 「それは、俺じゃなくても構わんだろう」 「駄目」 佐助は断ち切るように答え、小十郎の左ほおの傷に指を這わせる。小十郎が鬱陶しそうに佐助の指 を払った。その拍子に小十郎の爪が佐助の皮膚をかすめ、軽い痛みがちりりと肌の上を走り抜ける。 佐助はうっとりと目を細め、駄目だよ、と首を振った。 「あんたがいい」 誰でもいいなら、とっくに諦めている。 「誰か」ではいけない。片倉小十郎でなくては駄目だ。 出来損ないの歯車で、おろかしくも佐助のようなしのびに情を持って、すぐに怒るくせに感情が読 みにくい、死に行く敵兵にすら黙祷をするような、そんな男でなければ、――― そしてなにより、いざというその時には、迷いなく確実に自分を見棄てる男でなければ駄目だ。 「俺はあんたがいいんだよ、右目の旦那」 佐助は手を伸ばして、小十郎の髪に触れようとした。 けれども佐助の手がそこに辿り着く前にくるりと視界が反転し、急に目の前が暗くなったかと思う と顔のすぐ近くまで小十郎の顔が近付いている。 佐助は目を瞬かせた。 小十郎はほとんど憎むような目で佐助を睨んでいる。 「反吐が出る程下衆な野郎だ」 心底から染み出るような低い声に、佐助は陶然と笑みを浮かべ、ああまったくそのとおりだ、と噛 み付くような口付けを受けながら口の中でこっそりとつぶやいた。 次 |