ま た 会 い ま し ょ う 「過去」 片倉小十郎は、ひょいと鋭角にあがった眉を更にあげた。 猿飛佐助はへらりと笑って、そう、と頷く。てのひらの中の透明な宝玉のようなものをころころと転がしながら、佐助 は小十郎に武田信玄から伊達政宗へと宛てた書状を手渡し、それから問うた。 ねえ、あんたは信じるかい。 「この玉を握りしめると、過去へ行けるんだとさ」 「どこの酔っぱらいの与太話だ、それは」 「俺の里の言い伝えですよ、失礼なおひとだね」 この間座敷の隅っこで見つけたから持ってきてみた、と佐助は笑う。 小十郎は筆を硯に置いて、文机に向けていた体をくるりと反転させて佐助を見上げた。 「阿呆か」 「うん、まあね」 俺も信じちゃいないけどさ。 佐助は畳に座り込み、宝玉をてのひらの中で投げる。 午後のやわいひかりが、さらさらと座敷のなかに溢れている。宝玉はそれを浴びて、きらきらと透明にひかる。ひかり が宝玉を通過して、畳に落ちると虹色になった。綺麗だろう、と佐助は目を細めて言う。餓鬼の頃里の神棚にあったの を見つけてね、どうしても欲しくて掻っ払ってきちまったンだ。 小十郎はその虹色の陰を眺めながら、しのびの里も呑気なものだ、と息を吐く。 「大体もうおまえが握ってんじゃねェか」 「そうそう。だからまぁ、与太ですよ。何処にだって、一つや二つはそんな話があらぁね」 「だったら」 「うん」 「どうしておまえは、後生大事にそれを持ってやがったんだ」 「ああ」 ぱし、と佐助が宙に放った宝玉をてのひらに収める。 それから困ったように笑った。 「覚えてねえんだ」 「はあ」 「なんかね、あったような気はするんだけど」 覚えてない。 佐助はころりと宝玉を畳に転がした。 そうか、と小十郎は頷いた。そうだろう、と思った。おさない頃の記憶など曖昧なものだ。ひどくおぼろであったり、 局所的であったり、覚えていると思っていたとしてもそれが事実とどれ程近いかなど解りようもない。小十郎もおさな い頃のことなど殆ど覚えていない。 そう言うと、佐助はけらけらと笑ってあんたらしいなぁと宝玉を握りしめた。 「でもちょっと興味あるな」 「なにに」 「ちいさい頃のあんたにさ」 さぞや可愛くねえ餓鬼だったんだろうね。 佐助は笑う。小十郎は覚えてねェよと吐き捨てた。それから俺はおまえの餓鬼の頃になんざなんの興味もねェ、と言っ てやる。佐助は目を瞬かせて、大仰に顔を覆って泣く真似をした。呆れて頭を叩こうとすると、するりと避けられる。 顔をあげた佐助は当然のように泣いていなかった。可笑しそうに肩を揺らす。 「ひっでぇお言葉もあったもんだな。 俺様はねえ、そらあもう可愛らしいおぼっちゃんだったンだぜ」 「法螺は俺の居ねェ所で吹いてろ」 「嘘じゃねえっての」 「知るか」 この世でどうでもいいことの上位十番に入るくらいどうでもいい。 一向に立ち去ろうとしないしのびの相手が面倒になったので、小十郎は文机に向き直りながら淡々と言った。ひでえな あ、と佐助はまたけらけらと笑っている。早く帰ればいいと思うのだけれども、真田のしのびは何故だか解らぬが座敷 に落ち着いてしまって帰ろうとしない。 とっとと帰れ、と小十郎は書状に筆を走らせながら言った。 「政務中だ」 「見りゃぁ解りますよ」 「相手はできねェぞ」 「昼間っから盛る程俺も不自由してねえよ」 邪魔はしないよと笑う。 既に存在が邪魔だとちらりと思ったが、言うのも面倒なので捨て置いた。 蝉が鳴いている。ツクツクボウシの特徴的な鳴き声は、耳から入って胸のやや下の辺りで停滞するような感触がする。 夏が終わったのだと知れるその鳴き声と、ゆるい日のひかりと、背後に確かに在るひとの気配がうんざりする程に座敷 の時の流れを緩くする。ゆるゆると、氷が溶けるように時が過ぎる。 書状を幾つか書き終えて振り返ると、まだそこには佐助が居た。 小十郎は呆れて舌打ちをする。 「帰れっつってんだろう」 「あ、終わったの」 「これから畑だ」 「またかよぉ」 「おまえに指図される云われはねェ」 「折角来たンだから、些ッとくらい遊んでくれたって罰は当たんねえでしょうよ」 「知るか」 立ち上がろうとすると、膝にかつんと何かが当たった。 見ると先ほどの佐助の宝玉である。近くで見ると、長い間放置されていたからかどことなく濁っていて薄汚れているの が目についた。あ、どっか行ったと思ったらそんなところに、と佐助が言う。小十郎は呆れて息を吐いて、てめェで持 ってきたもんくれェ管理しろ、と。 膝に触れている宝玉を手に取った。 「―――――――――ッ」 ふわん、と。 高い場所から落ちるような、浮遊感があった。 次いで視界が暗くなる。周りが液体であるような、流動が小十郎の全身を包んだ。形の無いもので体を叩きつけられて いるような感触がする。圧がひどくて、目が開けられない。息も出来ない。 なんなんだこれは、と思う余裕が出来た頃に、唐突にその空間は終わった。 「――――ッ、く」 だん、と強く腰が地面に叩きつけられる。 思わず声が漏れた。じわりと痛みが鈍く拡がる。目を開けてみると、辺りはまだ暗かった。地面の感触は固い。すくな くとも先程まで居た座敷の感触ではない。岩のように思える。 取り敢えず此処が何処か知らねばと立ち上がろうとすると、ひゅん、と音がした。 風を切る刃物の音だった。 小十郎は咄嗟に腰の脇差しを抜いて、首の前に構える。 かきん、と音がしてなにか金属が弾かれた。目の前でなにかがひくりと蠢くのが見える。小十郎は足でその影を払い、 どさりと倒れたところを鞘で思い切り叩きつける。やわらかい感触がした。みしり、と骨に直接鞘が食い込む感触がて のひらに伝わる。 「ぅ、あ」 高い呻き声があがる。 小十郎は眉を寄せた。すこしずつ目が闇に慣れて、ものの輪郭が確かになっていく。 最初に目に入ってきたのは、目に痛い程に赤い髪だった。それから短い手足と、闇とおなじ黒ずくめのしのび装束、そ して未だ手に握られている苦無。小十郎は手を伸ばしてその苦無を取り払う。ちいさな手が伸びてそれを留めようとし たが、もう片方の手で手首を捻れば簡単に動かなくなる。 「餓鬼、か」 思わずつぶやく。 鞘の下に居るのは、まだ十にもならぬ童子だった。 しかし小十郎は鞘を離すことはせずに、そのまま膝で童子の背を押さえつける。童子とは言え、形を見るにあきらかに しのびである。先程の動きの速さを見ても、無闇に憐憫をかければこちらが危うい。 小十郎は目を細め、童子の髪を掴んで顔をあげさせた。 「おい、餓鬼。おまえ―――――」 何処の使いのものだ。 そう問おうとした。 けれども、声は出なかった。 「ころすなら、ころせばいいよ」 心なしか震えた高い声が、それでも気丈に言い放つ。 顔をあげさせられ、振り返った童子の大きなふたつの目は髪より尚濃い赤だった。 元よりしろいのであろう顔色が、恐怖の為か紙のように不自然に漂白されている。 闇のなかで、目のいろは殆ど黒に近い。けれどもそれ自体が発光しているとでも言うように、どれ程黒に近くとも矢張 りそれは赤だった。まさか、と知らず声が漏れる。 ころり、かつん。 膝に何かが当たった。 手を伸ばそうとすると、膝の下の童子が騒ぐ。 「かえせッ」 ちいさな手が、それを腹の下に隠す。 けれども、その短時間でもそれが何かは大方知れた。 小十郎は一瞬だけ目を見開いてそれからうんざりと呻いた。多少予想はしていたが、矢張りそれは佐助が持ってきてい たあの宝玉だった。しかもどう見ても新しい。先刻小十郎が見ていたものより、あきらかに輝きが透き通っているよう に見えた。小十郎はちらりと視線を膝の下に下ろす。 赤髪の童子は、憎々しげに小十郎を睨み付けている。 「どいてくんない。そんで、ころすならころせよ」 「おい、餓鬼」 「な、に」 「おまえ」 名は、猿飛佐助か。 そう問うと、童子の大きな目が更に大きくなった。うんざりと息を吐く。 「冗談だろう」 小十郎の声は、暗闇のなかですこしだけ響いてからすぐに消えた。 洞穴を出ると、外は深い森のなかだった。 夜明け前なのだろう。しろい霧が木々にかかっている。背の高い雑草には朝露がこぼれていて、小十郎の袴を濡らす。 小十郎はきょろきょろと辺りを見回して息を吐いた。予想はしていたけれども、辺りの風景に一切の馴染みはなかった。 木々と濃い緑、それから険しい山肌。何処ぞの山であろうとは思うが、それ以上のことは一切知れない。 「おい」 小脇に抱えたものに小十郎は声を掛けた。 しばらくそのまま待つ。が、返事は返ってこない。 舌打ちをしてから右手で髪を引くと、ぎゃあ、と高い悲鳴があがる。 「ってぇなッ、なにすんだよッ」 「目上の人間に問われたら直ぐに返事をしろ。躾のなってねェ餓鬼だ」 「めうえだって。そりゃあだれのはなしさ」 はん、と鼻で笑われる。 小十郎は目を細めた。流石だな、とひとりつぶやく。さすがあの阿呆の餓鬼の頃だ。何処までも小憎たらしい。赤髪の ちいさなしのび―――――驚くべきことに猿飛佐助の過去の姿であろう童子は、訝しげに眉を寄せて小十郎を見上げる。 ちいさなてのひらには透明な宝玉が握られている。 信じられぬがあれがこの状況の大元なのだ。小十郎は手を伸ばす。 が、佐助―――おさないが―――はひょいと手を動かしてそれを避ける。 「これはあげない」 舌を出して、顔を背ける。 「あんたみたいなあやしいやつに、やれるもんかい」 「怪しいなァ認めるが、それを貸して貰わんとどうも元の場所に戻れねェらしくてな。 べつに掻っ払おうってんじゃァねェ。些っとばかりの間貸してくれりゃあそれで済む」 「しんじられるわけねえじゃん」 佐助は顔を背けたまま体をばたばたと動かす。 小十郎は息を吐いててのひらで額を押した。信じられぬのも仕様がない。おのれとて、目の前にあの男が縮まったとし か思えないこの童子が居なければこんな夢物語を信じる気には到底なれなかっただろうと思う。失敗したな、と髪を掻 きながら思う。最初に会ったときに蹴って殴って抑えつけたものだから、大きな赤目には不審が満ちて引いてくれそう にない。 悪かった、と小十郎は佐助をひょいと下ろして言った。 「急に襲ってくるから、何処かの刺客かと思ってな」 髪に手を置こうとすると、するりと避けられる。 小十郎は思わずちらりと目を見開いた。佐助は不審げな目を変えぬままに、慎重に小十郎と間合いを取る。 「あんた」 「何だ」 「“いが”のしのびじゃあ、ないんだね」 「いが―――あァ」 伊賀か。 小十郎は頷いた。頷いて、両手を広げる。 「生憎おまえらとちがって、目眩ましの術は持ってねェよ」 「ほんと、かい」 「此処で嘘を吐いてどうする。大体他の里に単身潜り込むなんざ自殺行為はせん」 「じゃあ」 どうしてここに、と問われて、小十郎は苦く笑った。 本来ならおまえのせいだろうがと殴ってやりたいところだが、相手はおさない。そもそも小十郎に害なすのはこれから 随分先の相当に捻くれてからの佐助であって、今目の前で細かく震えている佐助にはなんの罪もない。 悪かったな、と小十郎はまた言った。 「怖がらせちまったな」 佐助の眉があがる。 「こわがってなんかないよ」 「そうか」 「こわいわけねえだろ」 「解った解った」 ちいさく笑ってから小十郎は歩き出そうとした。 一歩足を踏み出したところで、袖をぐいと後ろに引かれる。振り返ってみると、佐助がきつく口を真一文字に引き結ん で小十郎の袖を掴んでいた。首を傾げると、蚊の鳴くようなかすかな声が何か言う。小十郎は跪いて視線を合わせ、ま た首を傾げた。 佐助はちいさく口を開いて、それから閉じる。 「あぶないよ」 そして言う。 「あんた、しのびじゃないんだろ。 だったらここはあぶない。おさにみつかったら、ぜったいにころされちまう」 「ほう」 「ほう、って。あんたのことなんだけど」 「そうだな」 佐助は思いきり顔をしかめた。 小十郎は吹き出しそうになったけれども、堪える。首を傾げたまま、どうしたらいいだろうな、と問いかけると佐助は しばらく視線を宙にさまよわせて、それからしょうがないな、と呆れたように吐き捨てた。 「ついてきなよ」 くるりと踵を返して歩き出す。 小十郎はそれに従った。獣道とも言えぬ道である。普段里でどういうふうに生活をしているのだろうか、そもそもここ の何処が里なのだと思ったが、一見して集落があると知れれば不都合があるのかもしれない。改めて目の前を歩くちい さな佐助を眺める。梵天丸と初めて会ったときも、ここまでおさなくはなかった。 時折木の枝が足を掠る。鈍い痛みが残る。小十郎の半分程しかないようにすら見える背丈の佐助は、そのなかをまるで 煙かなにかのようにするすると通り抜けていく。しのびなのだな、となんとなく思った。 四半刻程歩いて辿り着いたのは、ちいさな社だった。 戸は腐りかけて、外れている。佐助はそれをかこんと完全に倒して、小十郎の袖を引いた。 「ここにいなよ」 「此処は」 「しらない。やしろ。さとのにんげんはここまではこない」 かくれてろよ、と言われる。 小十郎は頷いて身を屈め、狭い戸を潜る。佐助の横をすり抜けるときに、ふわりと血のにおいが香った。見下ろしてみ ると、腕から血がとくとくと流れている。小十郎は眉を寄せた。 「おい」 「なんだよ」 「腕貸せ。俺のせいだろう」 佐助は不思議そうに目を瞬かせた。 それから今気づいたと言うように腕に視線を下ろす。それから首を傾げる。べつにいいよ、と言う。こんなのいつもの ことだから、と言う佐助に構わず小十郎は佐助の腕を取って、引き寄せた。 ちいさな体は簡単に傾いて、ぽすんと膝の上に乗る。 「うわ、え、あ」 「大人しくしてろ」 懐から晒を取り出して、まずは流れている血を拭った。 それから歯で血に汚れた部分を噛み切って、残りを佐助の細い腕に巻き付ける。岩肌で削られたらしく、そこまで傷は 深くないが範囲が広い。血は流れるというよりは、滲んでいる。小十郎は目を細めた。おさないものが傷を負っている のを見るのは良い心地はしない。ついおのれの主の昔を思い出してしまう。 巻き終えて軽く結び、顔をあげると佐助はひどくほうけた顔をしていた。 「どうかしたか」 首を傾げると、ふるふると首を振られる。 心なしか顔が赤らんでいる。覗き込んでみると、ちいさなてのひらが飛んできて額を思い切り押された。 「いいから、ここでおとなしくてろよおっさんッ」 「おう」 「でたらだめだよッ」 「一度聞きゃ解る」 早く行けよと言うと、佐助はぎろりとまた睨み付けてからすいと消えた。 残された小十郎は首を傾げて、あれは餓鬼の頃から情緒不安定だったんだな、とちいさくつぶやく。外れていた戸をき ちんと嵌め込んで、社の壁に背をもたれさせようとすると、なにかやわらかいものに背が触れた。驚いて小十郎はすこ し体を退く。手を伸ばしてみると、ぬるい体温に指先が触れる。 目を凝らしてみると、それは犬だった。 持ち上げてみると、足を怪我している。 不器用に晒が巻かれている。小十郎は苦く笑った。要するにこれと同じ扱いをおのれはされたわけだ。 解けかけている晒を完全に解き、巻き直す。犬は大人しかった。まだ幼犬のようだ。薄汚れた茶色い毛並みに、骨張っ た感触が随分と衰弱しているのだと一目で知らせてくる。暗い社のなかに目が慣れてくると、そこらに食べ物が散乱し ているのが解った。おそらく佐助が持ってきたのだろう。 犬は衰弱しすぎて、それが口に入れられぬらしい。 小十郎はすこし考えてから、落ちている握り飯をてのひらで磨り潰し、ちいさな玉に丸めてから犬の口に放ってみた。 犬は弱々しい動きでそれを長い間咀嚼していたが、それからこくりと喉を鳴らして体内に飯粒の玉を入れ込む。どうせ することもない。小十郎は幾度かそれを繰り返した。 そのうちに犬は腕のなかで眠ってしまった。 ほんとうにすることがなくなって、小十郎は天井を仰ぐ。 蜘蛛の巣が張っている。誰も使うものが無いのだろう。甲賀の里の神体は此処ではなく、先程の洞穴のなかにあるのだ。 忘れ去られた社のなかで、死にかけの犬を抱えながら小十郎はまだ夢を見ているようだと思った。過去に来ているなど と信じることはひどく難しい。 けれども、事実なのだ、とも思う。 あのちいさな童子は、どう考えても佐助だった。 名がそうだと言うことだけでも、姿形がそうだと言うことだけでもない。 腕のなかの犬を撫でる。おそらくこれは、本来なら処分されるはずのものなのだろう。しのびについて詳しいわけでは ないけれども、彼らの生活が豊かでないことくらいなら小十郎も知っている。憐憫を棄てて、最低限のものだけを重視 し、研ぎ澄まされたなかでのみ優れた道具は産まれる。しのびはそういうものだ。 そうして矢張り、佐助はそのなかで浮き立つのだろう。 諦めたふりをして、結局何も諦めることのできぬあの男がそういう世界で生きることはどういうことなのだろうかとふ と思った。腕のなかの犬は、やがて生気を取り戻して走るようになるやもしれない。そうすればどうなろうか。忍犬と して育つことのできぬ犬ならば、矢張りこの深い森に放り出されるかそうでなければ処分されるのだろう。それをあの おさない童子が目の当たりにする。ひどいものだとは思わなかった。それはそういうもので、動かすことのできぬ摂理 のようなものである。 犬の耳を撫でながら、小十郎は長々と息を吐き出した。 次 |