小十郎が消えた。 視界から広い背中が一瞬で消えた。佐助は呆然として、目を擦る。 しかしどれ程目を凝らしてみてもそこには伊達家の家老は存在しなかった。そして代わりに、ちいさなものが丸まって いる。十になるかならぬかの童子が畳の上に転がっている。佐助はてのひらを口に押し当てて、首を傾げた。童子は黒 髪を頭の天辺で括っている。顔は見えない。 「あの、ええっと」 口ごもってから、薄い肩を揺する。 ゆるゆるとちいさな頭があがる。きつく後ろに纏められた黒髪が、幾本か解れて額にかかっている。佐助はひょいと眉 をあげた。あがった顔に、ひどく既視感がある。切れ長の目に、きつく上がった眉は、先程までそこに居た男のそれそ のものだった。まさか子供かとも思ったが、あの男の子供はまだ片手にも満たぬ年の筈である。 佐助が首を傾げていると、ほうけていた童子が急にひくりと体を震わせて、慌てたように辺りを見回し始めた。見覚え がない風景に驚いているような顔に見える。ちいさな手を額に当てて、目を見開いて眉をひそめている。佐助には気づ いていないようだった。ぱん、と手を叩く。 弾かれたように黒髪の童子は佐助を見た。 「おはようさん」 へらりと笑いかけると、童子はすくりと立ち上がる。 そして壁まで下がってそこに背をつけ、身構える。佐助は苦く笑って、だいじょうぶだよ、と言う。俺はなんもしない よ。ひらひらと手を振りながら言うと、ようやっと安心したのか童子はするすると腰を下ろした。が、近寄っては来な い。矢張り警戒しているらしかった。 仕様がないとそれは諦め、佐助は首を傾げてできるだけやわらかい声で問いかけた。 「坊やは、片倉の家の子かい」 此処は小十郎の政務室である。 佐助にしてみれば、当然の問いだった。 が、問われた童子は目を見開き、それからくしゃりと歪めた。 「ちが、う」 「へ」 「ちがう」 おれはかたくらのこじゃない。 佐助は困ったように眉を下げて、首を傾げた。 「いや、でも此処は――――」 「うるせえ」 ぴしゃりと言い捨てられる。 それから止める間もなく、童子は佐助の横をすり抜けて座敷から出て行った。 かたんと障子が思い切り良く閉められる。佐助は頭を掻いて息を吐いた。一体あれは誰なのかということから解らぬの に、一言二言でああも機嫌が悪くなられる理由など尚更解らない。もう一度座敷を見回してみたが、矢張り小十郎は何 処にも居なかった。透明な宝玉だけが、文机の下に転がっている。 「餓鬼は解ンないなあ」 つぶやいて、宝玉を拾い上げる。 それから一応追いかけてみるかと座敷を出た。勿論どちらに行ったかは知れぬけれども、童子の足ならばそこまで遠く も行けぬだろうとゆるゆると歩いていると、廊下で伊達政宗とかち合った。吊り上がった片眼が、忌々しげに歪む。ま たてめェか。佐助はひょいと肩をあげてそれに応える。 「仕事ですから」 「だったら終わったら早く帰りやがれ。小十郎の邪魔すんじゃねェ」 「してませんて。つーか、あのひとどっか行っちゃったよ」 「AH?」 訝しげに政宗が声をあげる。 「代わりに変な餓鬼が居てさ」 「なんだそらァ」 「俺にもさっぱり。あのひとの子供って、たしかまだ赤児だよね」 「だったらなんだ」 「ううん」 首を傾げて佐助は唸った。 しばらく考えてから、ふと顔をあげる。 政宗がどうした、と問いかける。佐助は首を振って、傾げ、それからまた振った。 まさかぁ、とつぶやく。まさかあ、そんなことないよねえ。 てのひらの中の宝玉が、やたらと重いような気がした。 まさか、と思う。佐助だってこんなもの信じていない。そんな夢物語があるものかと思う。けれども実際にあの男は消 えて、残ったのはひどくあの男に面影が似通ったあの童子。 ―――――――――おれは、かたくらのこじゃない 言葉がふいと蘇ってきた。 腕を組んで仏頂面をしている政宗に佐助は問うてみる。 「あのさ」 「なんだ」 「片倉の旦那って、もしかして養子に出されたりしたことあったりする」 佐助の問いに、政宗の目が見開かれる。 どうしてそれを知ってんだ、と言われる。ああ、と佐助は声を吐き出した。 「矢っ張り」 「なんなんだ、おまえさっきから」 「いやあ、こっちの話こっちの話。邪魔して悪かったね」 へらりと笑って、政宗の横を通り過ぎる。 それから城の屋根に登り、辺りを見回した。きょろきょろと見ていると、ちいさな黒い固まりが城を抜け出して城下へ と走っていくのが目に飛び込んでくる。にいと口角をあげて佐助はそれを追った。幼子の足は、ひどくゆるやかで、追 いつくことなど造作もない。 追いついて先回りをし、疲れた童子が大樹の傍で蹲ったところでするりと姿を現した。 「―――――ッ、おまえ」 「はいはい、大丈夫大丈夫。俺様べつになんもしないよ」 へらりと笑いかけて、傍に寄る。 それから髪に手を置いて、首を傾げた。 「あんた、片倉小十郎だろ」 童子の目が見開かれる。 佐助ははあ、と大きく息を吐いた。 まさかあの石にほんとうにそんなちからがあったとは思っていなかった。今頃小十郎は――――元の小十郎はどうして いるだろうかと思うとふるりと震えが来る。帰って来たときにどれだけどやされるか想像だにおそろしい。ふるふると 首を振って、その想像を頭から追い出した。 おさない小十郎の頭を撫でながら、逃げなくてもいいのに、と笑う。 「どうしたのさ、家に帰りたいの」 問うと、小十郎の目がまた歪んだ。 「ない」 「は」 「いえなんか、ねえよ」 吐き捨てる。 佐助は首を傾げた。 「無いってこたぁ無いでしょう」 「ねえよ。だいたい、おれは“かたくら”こじゅうろうじゃない」 そう言う声は、静かだった。 震えてもいないし、掠れてもいない。静かで、淡々として、平坦だった。 十になるかならぬかの幼子が決して出してはいけないと思わせる程に、その声は静かだった。 佐助は顔をしかめる。 相変わらず口調はあの男のものだけれども、あの不貞不貞しさが欠片もない。 「ここは」 どこだ、と小十郎は問う。 「ふじたのいえじゃなかった、さっきのばしょは」 「ああ、さっきのところは」 「また」 「え」 「また、か」 諦めたように小十郎は息を吐く。 それからちいさく笑った。 「また、べつのところにいかなきゃいけないのか」 おまえはそのつかいか、と問われる。 佐助は訳も分からぬままに眉を寄せた。ふじた―――藤田、はつまり小十郎が養子に出された先の家だろうとは思うが、 それ以外の詳しい事情など佐助が知るわけもない。小十郎は切れ長の目を地面に落として、いいよもう、と矢張り静か に言葉を吐き出す。 「おれはもういらないんだろ」 ちちうえにこどもができたから。 もうおれは、ふじたのいえでもいらないんだろ。 「つぎはどこにいけばいい」 夜色の目が、かすかに揺れていた。 佐助は黙り込んで、首を振る。 「俺は使いじゃないよ」 「じゃあ」 「此処は米沢のお城。知ってるでしょ」 頭に手を置いて、佐助は目を細めてかすかに笑う。 生憎俺は坊やのことをあんまりよくは知らないんだ、と佐助は言う。 「だからええっと、藤田、だっけ。 その事情もあんまり知らねえんで、いい加減なことは言いたくないんだけどさあ」 ほおを掻いて、佐助は笑う。 どうにも具合が悪かった。もうちょっと不貞不貞しくしてなさいな、と小十郎の頭を撫でながら言う。なんだかあんた がそんな調子だと、こっちまでかなしくなっちまって困るからさ。小十郎は不思議そうに佐助をじいと凝視している。 大丈夫だよ、と佐助は言った。 大丈夫だよ、あんたは。 「もうちょっと大きくなったら、あんたを要らないなんて言う奴は何処にも居なくなるから」 「おお―――――きく、ってなんだ」 「ああ、説明が難しいねえ。俺はね、あんたが大きくなってからを知ってるんだよ」 「――――うそつけ」 「嘘じゃねえって」 佐助は困ったように笑って、小十郎のちいさな手を握った。 「あんたは大きくなったら、そらあ立派なおひとになるよ」 「おれが、か」 「そうそう」 「でも」 「でもじゃあないって。俺を信じなさい」 握った手を小十郎の顔の前に掲げる。 それから子守唄でも唄うように、みんながこの手を欲しいって言う日がすぐ来るよ、と笑った。 次 |