夜を過ぎても佐助は戻ってこない。 忘れられたかと思っていると、丑三つ時になってようやっと戸がかたりと外された。 「おきてる」 「あァ」 「めしもってきたけど」 「悪いな」 握り飯と香の物が包まれている麻の袋を受け取って、小十郎は礼を言った。 すると佐助の体がひくりと動きを止める。首を傾げるとまた動き出す。小十郎の腕のなかの犬が、ゆるい動きではある がするりとそこから抜け出して、佐助の足下に駆け寄った。赤い目が見開かれて、引き結ばれていた口がゆるむのを見 て小十郎も口角をあげた。 「幾らか元気になったぜ、それも」 「よか、った」 ほう、と息を吐いて佐助は目を伏せる。 が、すぐにその顔は曇った。小十郎は握り飯を頬張りながら、そうだな、と宙にひとりごとのようにつぶやいた。そう だな、此処に居ればそいつは遅かれ早かれ。 「処分されるんだろう」 「――――かくすよ」 「いつまで保つかね」 「いつまでもだよ」 「出来んだろうな」 ぎろりと佐助は小十郎を睨み上げる。 あんたにはかんけいない。小十郎は肩を竦めて指についた米粒を舌で舐め取る。馳走になったな、と頭を下げる。また 佐助の体がひくりと収斂した。どうした、と問うと、ふるふると佐助の首が振られる。 それから、ちいさな声で、 「なれて、ない。そういうの」 と言う。 「そういうの、あんまりいわなくていいよ」 「そういうのってなァ、何の話だ」 「ほめたりとか、おれいとかだよ」 「世話になったのは事実だ。それくらいは言わせろ」 「なんか」 こまる。 佐助はちいさくつぶやいた。 くすぐったい、と言う。小十郎は顔を下げてしまった佐助の旋毛を見下ろしながら、すこし黙り込む。それから髪に手 を置いて、くしゃくしゃと掻き混ぜた。佐助が慌てて身を退こうとするのを抑えつけて、短い赤毛を縺れるほどに掻き 混ぜる。それから、有り難う、とちいさく笑った。 「助かったぜ」 目を覗き込みながら言うと、赤い目がくしゃりと歪んだ。 顔が赤くなっている。慣れていないというのは事実なのだろう。どうしていいか解らないと言うようにちいさな手を上 下させ、首をやたらと振る。小十郎はくつくつと笑って、佐助の膝の上に乗っている犬をひょいと抱き上げた。 俺が持って帰ってやろう、と言う。 「寂しいかもしれんが、此処に居るよりは安全だろう」 「あんたが」 「あァ」 「どうやってさ」 「さっきの玉を貸してもらえば」 おそらくは帰れるのだろう。 佐助は黙ったまま小十郎を見上げる。 「かえる、の」 「此処でおまえに飼われるわけにもいかん」 「おれ、ばれないようにするよ」 袖を引いて、佐助は必死に言う。 小十郎は困ったように息を吐いて、それから首を振った。駄目だな、と言う。 「大事なものがあってな」 帰らねェといかん。 そう言うと、佐助は黙って袖を離した。 それから袴の横に掛かっているちいさな巾着のなかから、きらきらとひかる宝玉を取り出す。ちいさなてのひらで包み 込むようにして佐助は小十郎にそれを差し出した。 犬を抱えて、小十郎はそれに手を伸ばす。 「ねえ」 宝玉に触れる直前に、佐助が声をあげた。 小十郎は手の動きを止めて、首を傾げる。 「どうした」 「これさ」 「あァ」 「これを、おれがずっともってたら」 あんたとまた、あえるかな。 佐助は問う。小十郎は黙った。 「あァ」 それからちいさく笑う。 「大切に持っておけよ。無くすんじゃねェぞ」 「そのいぬにもあえる」 「会えるさ」 「ほんと」 「本当だ」 「――――そっか」 「あァ」 「じゃあ」 「うん」 「また、ね」 佐助はへらりと安心したように笑った。 そしてぐいと手を差し出して、頭を下げる。小十郎は最後にくしゃりと頭をひとつ掻き混ぜてやってから、ちいさなて のひらを台座にしている透明な宝玉に指先を触れさせ、それから強く握りしめた。 小十郎の手は、ぬるい。 おさないからだろう。佐助はそれを握りながら、へらりと笑う。 「みんなだよ。ほんとにみんな、あんたを欲しがるンだから」 「じゃあ」 「うん」 「おまえもか」 小十郎の目が、真っ直ぐに佐助に向いている。 佐助は不意を突かれたように言葉を無くして、それから首を傾げて困ったように笑った。さあねえ、と曖昧に応える。 さあねえ、どうだろうねえ。握っている小十郎の手が、ひくりと揺れる。佐助は困ってしまって、ううん、と唸ってか ら空を仰いだ。しばらく考えてから、ひょいと顔を戻す。 「すくなくとも、必要だとは思ってる」 髪を撫でてやる。 小十郎はゆるゆると息を吐いた。 佐助はけらけらと笑い声をたてて、薄い肩をぽんぽんと叩いた。 「さあさあ、坊ちゃん解ったならとっとと元のところに戻りましょうぜ。 いつかは立派になれるってったって、今此処に居たらどうにもならねえンだからさ」 「どう、やってだ」 「ああ、たぶん大丈夫だからそこは心配ご無用」 おそらくあの玉を握れば戻れる。 佐助の言葉に小十郎は頷いて、それから忍装束の袴をくいくと引いた。首を傾げると、夜色の目がくるりと回って、す こし躊躇うように揺れたが、そのうちにまた真っ直ぐに佐助に向けられた。 「おまえ」 「はいはい」 「なまえ、は」 「ああ」 そういえば名乗っていなかった。 佐助はおのれの名を舌先に乗せようとして口を開き、それからすこし考えてから閉じた。 「ん、内緒」 へらりと笑う。 小十郎が不満げに眉を寄せる。 「なんで」 「いやあ、だって」 「だって、なんだ」 「ここは内緒にしといたほうが面白そうだから」 にいと口角をあげて、小十郎の頭の天辺に括られた髪をひょいと掬う。 さらさらとそれがこぼれる。佐助は目を細めてその流れを眺めながら、それにさ、と言葉を続けた。それにさ、そのう ち解るから大丈夫だよ、と言うと、小十郎の目がちらりと開く。そのうち、と繰り返す。そうそのうち、と佐助は同じ ように繰り返した。 「また会えるから」 「また」 「そう」 「いつ、だ」 「そうだな。大分後になるかもしんねえわ」 でも会えるよ。 日のひかりに透かすと、小十郎の髪はきらきらとひかる。 佐助は懐をごそごそと探って、宝玉を取り出した。はい、とそれを小十郎の前に差し出す。小十郎はじいとその宝玉を 凝視して、それから手をのろのろとあげて、佐助のてのひらの指先にちいさな指を添える。薄い唇をきつく引き結んで、 佐助の目に視線を合わせる。佐助はへらりと笑った。 「またね」 ふ、と小十郎の目がゆるむ。 佐助は目を見開いた。 かすかにだけれども、それは笑みのように見えた。 確認しようとする前に、ちいさな手は宝玉を強く握りしめた。 またな、と小十郎が言ったような気がしたが、ほんとうに直前だったのでしかとは聞き取れなかった。 次 |