察しておくれよ花ならつぼみ 主が咲かせてくりゃしゃんせ 猿飛佐助は一際高い杉の木のいっとう上に登って、やわらかいとは言え目を刺してくる日のひかりを手をかざして避け ながらぐるりと米沢の城下を見渡した。雪に埋もれた奥州は、どこもかしこも真っ白で民家と道の区別すら危うい。佐 助はほうと息を吐き、さて困ったねと肩に乗ったおのれの鴉の背を撫でた。 「右眼の旦那は、何処に行ッちまったンだか」 ぽん、と胸にしまった書状を確認するように叩く。 武田信玄から片倉小十郎への、秘密裏の書状である。何故伊達政宗宛ではないかと言えば書状の中味が真田幸村に関す ることだからである。伊達政宗はすぐれた領主だが、年若く、やや分別が足りない。特に佐助の直接の主であるところ の真田幸村に関してはことさらに足りない。一触即発とはまさにあれを言うのだろうと佐助などは思う。ちなみに佐助 の主のほうも負けず劣らず、分別どころか理性すらもこと伊達政宗相手になると足りないどころか一瞬にして霧散して しまう。 武田と伊達は目下同盟中であるので、不要な争いは極力避けるのが双方の―――この場合は武田信玄と伊達家の家老片 倉小十郎をはじめとする蒼紅を含まぬ重臣たちの願いであり、同時に絶対的に遂行されなければならない任務でもあっ た。ともかくふたりを会わせないことだと武田信玄が言った。成る程道理だと片倉小十郎も頷いた。そういうわけで、 このふたりの動向にちらとも変化があれば武田の首領と伊達家の家老がなにか間違いが起こらぬように互いに知らせあ うことが決まった。 佐助はつめたい空気にふるりと身を震わせて、やれやれと深く息を吐く。 幸村は冬の間、体を鈍らせぬ為に山ごもりで修行をすることにしたらしく、二三日前に書き置きを残して上田城を出奔 してしまった。何処に行ったかはみなで探索中であるけれども、まず間違いなく佐助の主に目的地などがあるわけもな く、常人であればありえぬことだがまかり間違って奥州に辿り着かぬとも限らない。熊に会おうが山賊に会おうが谷か ら転げ落ちようが死ぬ筈もない虎の若子を捜すよりも、まずは奥州に取り急ぎその由を伝えよとは信玄の言葉である。 苦労させるな、と信玄は佐助に言った。 「まったく幸村には過ぎたしのびよ」 出立前に信玄はそう深く息を吐いて、佐助の髪をくしゃりと撫で混んだ。 佐助はなんとも言い様がなく、とりあえずへらりと笑ってお仕事ですからと言っておいた。済まぬなと言われてしまえ ば益々身の置き所がない。 済まぬな、と信玄は言う。 「男の形をするのは、例えしのびと言えど辛いこともあろう」 佐助はすこしだけ目を丸めてから、すぐにすいとそれを糸にする。 「逆ですよ逆。お陰様でくのいちの面倒なところが無くなッて、俺としちゃぁ真田の旦那に感謝してるくらいだ」 「ふむ」 「もちろん、大将にもね」 だからご安心を。 まだ何か言いたげに口を開く信玄を、半ば断ち切るようにして佐助は頭をひょいと下げ、そうして姿を眩ませた。 すっかりと葉がこぼれ落ちて裸になった木々の間を駆け抜けながら、まったく大将には困ッちまうなぁとひとり佐助は こぼす。 武田では信玄だけが佐助が女であることを知っている。 幸村は知らない。むしろ幸村の為に、佐助は女であることを隠してると言っていい。 佐助が幸村のしのびとなったのは、二三年ほど前のことに過ぎない。 佐助は真田幸村の下で働くことに決まったと里長に知らされたときに、女ではなく男として勤めよと唐突に命じられた。 里長いわく、甲斐の虎の若子はひどく初心で、女人が近付くだけで顔を赤らめるほど。護衛も兼ねているしのび相手に もそうでは埒があかない、かといっておまえ以上のしのびも居ない、仕様がないから男として仕えよとこう――――― ――今思い出してもひどく強引な命令をされた。佐助はしばしほうけたが、一しのびに里長の命を断る術があるはずも なく、男として仕えて早三年になる。元々女らしい言動など取ってこなかったこともあって、今のところ最初から話を つけていた信玄以外に素性を知られては居ない。 仕えてみて解ったことだが、話以上に幸村は初心で、おそらく佐助が女だと知ればもう傍には寄らせぬだろう。三年付 き合えばいやでも情が湧く。 幸村と会えないのは、それはちょっといやだなぁ、と佐助は思う。 佐助としてはこのまま男として幸村に仕え続けるのがいっとう望ましい。元よりくのいちなど、里に居れば種床として 使われるだけで、女としてのしあわせなど望みようもない。気に入った主と男として生涯を終えるのもなかなかに上等 ではないかと最近では思うようになった。 だからきっと、佐助が女であることを知る者はもう増えない。 そういうふうに、佐助は思っていた。 小十郎を捜してふらふらと城下を彷徨いていたら、城壁のほど近くに人工的にあつらえられたように見えるぽかりと広 い空間の真ん真ん中に、見覚えのある勢い余って跳ねた襟足と広い背中を見つけた。佐助は鴉の足に捕まりながらはて なと思う。何処も彼処もしろしろしろ、しろで、雪に塗れたこの場所で一体龍の右眼は何をしているのか、一向に見た だけでは知れない。 佐助が雪に降り立つ前に、気配を感じたのか小十郎は振り向いた。 「真田のしのび」 「やや、どうもどうも」 宙に浮いたまま佐助はへらりと笑う。 小十郎はすこし黙ってから、眉をちらりと寄せ、また何かあの坊ちゃんがやったのかと問う。佐助はほおを掻いて苦く 口角をあげた。 「やぁ、まあ、ご想像通りというか、ご慧眼この上ないというか」 「冬くれェ大人しくしてらんねェのか」 「俺様に言われてもな」 「――――まァそうか」 うずくまっていた小十郎は、息を吐いてすこし笑った。 立ち上がり、降り立った佐助を見下ろしておまえさんも苦労するなと言う。お互い様でしょうと佐助は両手を挙げて笑 った。書状を渡し、さて帰るかというところで、佐助はふと首を傾げて小十郎の纏っていた作務衣の裾を引いた。 「なぁ」 「なんだ」 「あんた、ここで何してンですか」 城壁の近くは堀の縁。 今は雪が降ってないとはいえ、家老が作務衣を纏って―――そもそもまずそれが奇異ではあるけれども―――銃弾のご とくの殺傷力を持つこのつめたい空気を耐えてまでうずくまっているべき場所とは到底言えない。寒くないの、と問う と、寒ィよ、と返ってきた。 「じゃあ何でこんなところに居ンのさ」 「こんなところとか言うな。ここは俺の畑だ」 「はたけ」 「あァ」 「雪に見えるンですが」 「雪だからじゃねェか」 小十郎は真っ平らな声でそう言う。 佐助はふうんと鼻を鳴らした。知らぬ仲ではないけれども、以前から思っていたがどうも佐助はこの男が得意ではない ようだった。言葉少なな小十郎と話していると、どうもおのれが空回りしているように感ずる。冬に野菜って出来るも んかとつぶやくと、阿呆かとこのうえなく軽蔑しきった顔で見下ろされ、もとい見下され、佐助は目の前の男と会話を 続けることを諦めた。 ひょいと肩を竦めて足を踏み出す。 「ま、精々頑張っておくんなさいな―――――――ッて、つめてっ」 ずぶり、 足が泥濘に沈んだ。 雪に覆われていて解らなかったけれども、佐助が足を踏み入れた場所は深く掘り込んでありそのうえに水が張ってあっ たらしい。佐助は思わず雪を蹴り上げ、ついでに水もばしゃんと蹴り上げた。足を引いてふるりと震え、くるりと振り 向き恨めしげに小十郎を睨み付け「なんだよこれなんの嫌がらせですか」と文句を言ってやろうと口を開いたところで、 「―――――――ッ」 ひゅんと金属が宙を斬る音がした。 佐助は咄嗟に避けたが、その拍子にまた泥濘に足を突っ込んでしまう。つめたい。 けれどもその直接的なつめたさより、目の前の男の視線のほうが倍は佐助に対してつめたかった。腰から刀を抜き去っ た小十郎は、外したことにひとつ舌打ちをし、しかしまた正眼に構えて息を整えている。佐助は慌てて胸の前で両手を 振った。 「ちょ、っと待った。なに、なんですか右眼の旦那どうしちゃったの」 「どけ」 「は」 「そこを、どけ」 即刻。 今すぐ。 「でなけりゃお祈りを済ませろ」 楽に逝かせてやる。 凄みの効いた、戦場でのそれのような低い声で小十郎は言う。 なんでだよと佐助は苛立ちながら雪を蹴り上げ泥濘から足を抜いた。このどろどろがどうかしたかよ。小十郎のほおが ひくりと歪む。なんだと。だからどろどろ、なにこれ、罠にしちゃ仕掛けた場所がお粗末だぜ。 「こちとらこの寒いのにこんなに濡れて、逆に謝ッて欲しいくらいだよ。 どうしていきなり斬り付けられなけりゃいけねえのさ」 佐助は足にこびり付いた泥を拭いながら吐き捨てる。 ふと違和感を感じて顔を下げた。具足になにか、長い草のようなものがへばり付いている。摘み上げて顔の前に持って いき、はてなと首を傾げる。 くつくつと小十郎が笑いに喉をふるわせる音がした。 「セリだ」 「へ」 「おまえが今踏みにじったのは俺が育ててるセリだっつってんだよ」 小十郎は笑いながら言う。 佐助はさあ、と体温が下がる音を聞いたような気がした。 ごめん、と言ってみる。ごめん知らなかったンだよ。小十郎はまだ笑っている。睨み付けられたほうがいくらか怖くな い、と佐助は思った。 不意に笑い声が止まる。 小十郎は目をすいと細めた。 「死ね」 驚くほどその声の調子は平坦だった。 天井が見えた。 視線を動かすと、次に障子と畳が目に飛び込んでくる。背になめらかな布の感触がする。体の上にかすかな重みとぬる さを感じる。どうも布団の上に寝転がっているらしいと佐助は思った。 「ッ、てぇ」 体を起こそうとすると、激痛が足にはしった。 折れているんだか捻っただけなんだか、ともかく動かせないことに変わりはない。佐助は早々に諦めた。諦めて、まず は今おのれが置かれている現状を確かめることにする。それなりに広い座敷は、しかし簡素と言えば聞こえがいいがひ どく殺風景で、文机と桐箪笥がひとつずつぽつりぽつりとあるばかりである。障子から差し込んでくるひかりはまだ昼 間のそれで、丸一日潰れていたのでなければ先程からそう時は経っていないように思う。 どうしたものかと思っていたら、からりとその障子が開いた。 「起きたか」 声が落ちてくる。 佐助は視線をあげて、思い切り顔を歪めた。くつりと苦い笑い声が続いて降ってくる。 「そう毛虫でも見るみてェな顔でひとを見るもんじゃねェ」 「毛虫だってここまでひどくねえよ。足、動かないンですけど」 「折れてんな」 「うっそだろぉ」 佐助はうんざりと吐き捨てる。 小十郎は佐助の寝転がった布団の横にあぐらをかいて、腕を組んで悪かったと一切そうは思っていないような顔でいち おう、謝った。 「セリでかっとなった」 「あんたの沸点が何処にあるのか俺にはさっぱり解らねえ」 「おまえが踏むからだ。おかげで幾つか駄目になった」 「俺は足が駄目になったよ」 「胸もな」 「は」 「胸」 おまえ堀に落ちたときに擦って打ち身になってるぞ、胸。 小十郎は淡々と言って、腕を伸ばしてぽんと単衣越しに佐助の胸を叩いた。鈍い痛みに佐助は眉を寄せる。なるほど、 確かに痛い。 「―――――――って」 佐助は目を見開いた。 慌てて胸元に手を突っ込んでみる。そこには包帯が丁寧に巻いてあった。そういえばしのび装束ではなくおのれは真新 しい単衣の小袖を着せられている。水を浴びせられたような心地がした。 まさか、と佐助は小十郎を見上げておそるおそる問うた。 「この、包帯」 「あァ」 「だれが、」 「そらァ」 「俺だが」 どうかしたか。 小十郎は不思議そうに首を傾げて、矢張り平坦な声でそう答えた。 佐助はかちりと凝固した。 それを小十郎が不思議そうに覗き込む。顔の前で手を振って、どうした、と問い掛け、それでも応えのない目の前のし のびに苛立ったのかおもむろに手を振り上げると、ぱん、と小気味よい音を立てて赤い頭を叩きつけた。がくりと佐助 の頭が揺れる。ちかちかとした痛みにようやく意識が戻ってきた。 頭を押さえながら佐助は恨めしげに痛いと呻いた。 「急に唖みてェになるからだろうが」 小十郎は眉をちらとも動かさない。 佐助は唸って、それからそんなことを言っている時でもないと思い出してこくりと喉を鳴らした。みぎめのだんな、と 佐助は伊達の家老を恐る恐る呼ぶ。小十郎はひとつ目を瞬かせてそれに応える。 「あの、さ」 「あァ」 「あんたも驚いたと思うけど、このことは他言無用にしちゃくれねぇかな―――特にうちの旦那に、なンだけどさ。 あのおひとは、このこと知らねえンですよ。知られたら、」 佐助はすこし間を取る。 想像したらつい恐ろしくて舌が痺れた。 「俺は」 「どうかしたか」 「なんでもない。ともかく頼むよ。真田の旦那にだけは絶対に言わないでくれ」 「そら構わんが」 小十郎は首を傾げた。 「そんなに大層なことにゃなってねェぞ。精々十日も経ちゃァ腫れも痣の青味も引くだろうし、足は折れてるが綺麗に いったからきちんと戻るぜ」 「そういう問題じゃ」 佐助は小十郎の言葉を遮るために口から出した言葉を中途で止めた。あれ、と思う。ちいさな刺のような違和感に眉を 寄せる佐助の顔を、不安がゆえと取ったのか小十郎はすこし声の調子をやわらげて、落ち着け、と諭すように言う。 なんなら俺が真田に言ってやるさ。 「元はと言やその傷は俺のせいだ。説明すりゃァそうお咎めもねェだろうよ」 「おとがめ、え、いやそうじゃ」 ねえんだけど、と戸惑いながら言うと小十郎はふうんと鼻を鳴らし、だったら何だと腕を組んだ。佐助は言葉に詰まっ てしばし黙り込んだ。まさか自ら「俺が実は女なことだよ」と言うわけにもいかない。しかし小十郎が手ずから佐助の 装束を剥いで、あらわになった肌を見たならば知られていないわけもない。どうしたもんかなと視線を落としていると、 待っているのに飽いたらしい小十郎はうんざりと深く息を吐き、用がないなら俺はもう行く、と立ち上がった。 佐助は慌てて口を開く。 「あの、右目の旦那」 「なんだ。悪ィが早くしてくれねェか。こっちもそう閑じゃあねェんだ」 「解った、解ったよ、ちょっと聞きてぇことがありましてね、その」 「なんだ」 「つまりその、俺の」 「おまえの」 「―――――胸の」 ことなんだけどと佐助はちいさく呟いた。 小十郎は立ったまましばらく佐助を見下ろして、次いで視線を空に浮かせ、むね、と吟味するようにその音をゆるゆる と口から吐き出したあと、ようやっと「あァ」と頷いた。胸な、と言う。 佐助は息を詰めて次の言葉を待った。 「おまえの胸は」 「う、ん」 「さっきも言ったが」 小十郎は屈みこんでぽんと佐助の肩を叩き、大した事ァねェ、強いて言えば腫れがでけェこともねェが、 「うちの薬師に打ち身に効くのを誂えさせりゃァ、まァまず十日もかからず完治は間違いあるまいよ。 なに、安心していい。伊達の薬師はみな優秀だぜ」 安静にしてりゃァ十日後には元の通り、 つるつるの真っ平らにすっかり戻っちまうから案ずるな。 小十郎はそう結んで、最後に佐助を安心させようとしたのかちらりと口角を上げて再び立ち上がった。 「武田には使いをやって、俺が適当に誤魔化しといてやろう。怪我の手当ても俺がやればどっかに漏れることもねェ」 おまえはゆっくり、その腫れを治してろ。 障子がからりと閉まる。佐助はしばらくぼう、とそれを眺めてから口を開いて胸元の掛け布団に思い切り噛み付いて、 「腫れじゃねえよッ」 と叫びたい衝動を寸でのところで押さえ込んだ。 次 |