さくりさくりとは鳴らない。 溶けかけた雪の道は、小十郎が足を進める度にぐちゅぐちゅと水音を立てる。 佐助は広い背中に負ぶわれて、ふるりと体を震わせた。先刻かいた汗のせいで、ひどく体が冷える。小十郎の背中の体温 に縋るようにしがみつくと、もうすこしだ、という声が前からかかった。 「寒いか」 「些ッとね」 「もうすこし厚着をして来い」 「来るときは暑いくらいだったンだもの」 唇を尖らせると、小十郎がほうと息を吐いた。 餓鬼か、と言う。どうせ餓鬼ですよと佐助は返した。 しばらくしん、と沈黙が落ちた。米沢城の裏手にある畑から、くるりと回って片倉の屋敷までそう離れてはいない。かの 独眼竜がおのれの右眼に向かって「城から離れた場所に屋敷を構えるのは許さねェ、You see?」と言ったとか言 わないとかいう噂もあるが、真偽の程はさておくとして片倉屋敷は米沢城の目と鼻の先に建っている。 石塁が高く積まれた武家屋敷群に行くには、階段を上らなくてはならない。 佐助は眉を下げた。 「ごめん、重いだろ」 佐助は女にしては、体中に筋があってその分重い。 が、小十郎は肩を竦め、べつに、とだけ言う。 それから、 「悪かったな」 とつぶやいた。 佐助は目を丸めて、瞬く。 今何か言った、と問う。小十郎は前を向いたまま、悪かった、と再び言う。 「それって、この間のことかい」 「あァ」 「それは、」 もう謝られた。 べつにいいよと佐助は笑った。 元々男の形をしていたのは佐助だし、癪なことではあるが―――――――胸がちいさいのも事実だ。 最近来なかったのはそのせいなの、と佐助は重ねて問うてみた。小十郎はしばらく黙り込んでから、あァ、とまた頷く。 「おまえは、どうして男の形なんざしてる?」 「あぁっと、それはまあいろいろあってねぇ」 佐助は苦く笑って、幸村のことを説明した。 「うちの旦那はおぼこくッてねぇ、俺様が女だなんて知ったらとてもじゃないけど仕えらンねえのさ」 「そらァまた難儀だな」 「ま、ね」 うっすらと笑う。 そうでもないよ、と付け加えた。 幸村は真っ直ぐで純粋で、暑苦しくて堪らなく鬱陶しい。そして有り得ないほどにきらきらしている。俺はあのひとに 仕えることが出来ンならそれでいいよと佐助はうっとりと言って、それから慌てて口を噤んだ。 喋りすぎた。耳がかあと熱い。 小十郎がちいさく笑った。 「大したもんだな」 「―――――――なに、が」 「その覚悟が、だ」 男でもなかなか居ねェよ、と言う。 「おまえの主は、しあわせものだな」 それだけ思われて。 小十郎の言葉に佐助はずるずると背中を丸めて額を肩胛骨の辺りに押しつけた。顔が熱い。どうした、と問われて首を 振った。どうだか解ったもんじゃないさ、と戯けた声を吐き出すと、小十郎は解る、と短く応えた。 佐助はふと、手の力をゆるめた。 「そう、かな」 「そうだろう」 「ほんとに、真田の旦那はそう思ってるかなぁ」 「解ってるかどうかは兎も角、思ってると思うぜ」 「―――――――だと、いいねえ」 佐助はくしゃりと笑みの出来損ないを浮かべる。 おのれ如きの存在で幸村がなにかしら助かって、まさかとは思うけれども「しあわせ」になっているとしたらもうそれ 以上に佐助が望むことなどありようもない。 だといいなあ、と佐助はまた言った。 「でもだったら、あんたの御主人も相当しあわせもんだね」 「政宗様のことか」 「俺の世話してくれる姐さんが、相当あんたのことを褒めてたぜ」 「ふうん」 「興味なし?」 「無ェな」 小十郎は佐助を背負い直す。 「第一、しあわせなのは俺だ」 ちいさな笑い声がする。 佐助はほうと息を吐く。肩にほおを付けて、俺もだよ、と目を閉じた。 片倉の屋敷の縁側にすとんと降ろされ、佐助は小十郎を見上げた。ありがとう、と頭を下げるけれども、構わん、と首 を振られた。佐助はほおを掻いて、眉を下げへらりと笑う。 「重かったろ」 「べつに、と言っただろう」 「そうだけど」 「それに」 ちらりと小十郎の口角が上がる。 「おまえさんの覚悟の重みだ」 感じられることは光栄だ、と言う。 くしゃりと佐助の赤い髪に大きなてのひらが乗った。 佐助はぼんやりとそのまま小十郎を見上げる。雪駄を脱いで縁側に上がった小十郎は、佐助の肩をひょいと持ち上げた。 それに抵抗することも佐助はなんとなく忘れてしまって、なすがままにされる。 障子を開けると、女房衆がわっと群がってきた。 「佐助様のお帰りですわ」 「佐助様、何処にいらしてたのですか」 「私たち四方八方探したのですよ、まさか誰かに攫われたのかと」 「ああ、でもほんとうにご無事で良かったですわ」 「―――――――あら、そこにいらっしゃるのは小十郎様では」 「まあどうしましょう」 「申し訳御座いません、姦しくて、私たちったら」 きゃあきゃあと黄色い声が続く。 佐助はくらりと眩暈を感じた。小十郎は横でしかめ面をしている。 「煩ェ」 ぽつりと低い声が薄い唇からこぼれた。 しん、と女たちの声が止んだ。 小十郎は睨み付けてさあと女たちを散らせて、座敷の真ん中にしつらえられた布団の上にそうと降ろし、それからまた 振り返って女房衆を睨み付ける。 「何をしてるんだ、おまえらは」 戻れ、と唸るように怒鳴る。 それで蜘蛛の子を散らすように女房たちは座敷から消えていった。 小十郎は舌打ちをして、すまなかったな、と佐助を見やる。佐助は苦く笑って首を振ってやった。 「もしかして、ずっとああか」 「はあ、まあ。概ねあんな感じ」 「そいつァ、悪かったな」 「いやあまあ、いいんだけど」 佐助は後ろ手をついて、小十郎を見上げる。 小十郎はしばらく佐助の目を覗き込んでから、おまえさえ良ければ、と言った。 「俺が世話をしたほうが、良さそうだな」 「へ」 「どうだ」 「どうだ、て」 「おまえはどっちがいい?」 佐助は黙り込んだ。 ええっと、と呻いて目を閉じる。 もう胸の腫れは引いているので、それを曝す必要はない。その上小十郎ならあの女房衆のように「佐助様」と下にも置 かぬ扱いはしないだろうし、気心もそれなりに知れているので楽は楽だろうし―――――――それに、 佐助は目を開いた。 へらりと笑う。 「じゃあ、頼もうかしら」 「そうか」 「どうもあんまり大事に扱われるとくすぐったくてね」 「成る程」 ちらりと笑って、小十郎は掛け布団を佐助の膝まで持ち上げた。 今日からはまた俺が顔を出そう、と言う。そうしておくれと佐助は頷いた。 からりと障子を開いて去っていった小十郎の後ろ姿が見えなくなってから佐助はぽすんと枕に顔を押しつけて、ほう、 と息を吐いた。顔が、熱い。 やっちまった、と佐助はつぶやいた。 「やべ、惚れた―――――――かも」 ぎゅう、と枕にしがみつく。 目を閉じたら小十郎の顔が浮かんできて心底参った。 翌日から、佐助の座敷に来るのは小十郎に戻った。 佐助の足の包帯を変え、食事の補助をする。それからすこし話して、それで帰る。 それは小十郎が佐助のことを男だと認識していた時からそう変わってはいないけれども、女だと解ったからなのか それとも先日負われて帰った時に話したことが原因なのか、しかめ面の家老の顔はなんとなく以前より柔らかいも ののように見える。気のせいかもしれない。 佐助がそうだといい、と思っているからそう見えるだけかもしれない。 「大分、良いな」 佐助の足首を握りながら、小十郎が言う。 「もう直に歩けるようになるだろう」 「そうか、世話になったね」 「なに、俺のせいだ。元々はな」 「あとどれ位かかるかな」 「そうだな」 顎に手を置いて、小十郎はすこし考えた。 それから、十日も経てば元の通りだろう、と言う。へえ、と佐助はつぶやいた。 そうすれば幸村に会いに行くことが出来る。そう思えば安堵で胸がいっぱいになるが、 「これでようやく、主の元に戻れるな」 小十郎がぽんと髪に手を置いた。 くしゃりと撫で込まれる。佐助は目を閉じて、そうだねえ、とちいさくつぶやいた。 小十郎が行ってしまってから、佐助は足を持ち上げてみた。多少違和感はあるが、そう痛みもない。これからしば らく歩く訓練をして、小十郎の言う通り十日経てば元のように駆けることが出来るようになる。 そうなれば、佐助は甲斐に戻ることが出来る。 「―――――――どうしたもんかな」 佐助は息を吐いて、眉を下げる。 小十郎とこんなふうに会うことはもう無いだろう。 きっと次に会うのは戦場か、そうでなくてもこんなに近しくなることは有り得ない。主のことを語って、うっすら と驚くほどやさしげに笑う小十郎を見ることなど二度とないかもしれない。 そう考えるとうんざりするほど切なくなった。なんてこったい、と佐助は膝を抱えて首を落とした。女としての面 倒なあれやこれやから解放されていたと思っていたのに、結局こんなところで思い知らされた。佐助は女で、惚れ てしまえば相手と離れたくないと呼吸をするように自然に思ってしまう。 小十郎は女房衆にも慕われて、妻も居て、花魁に馴染みが居ると言う。 佐助は眉を寄せた。膝を抱え込んでも膝にやわらかな感触の当たることのないおのれの体にうんざりする。それこ そ小十郎は佐助のことをそんなふうになど見ていないに違いない。女だと知ってからも、佐助の胸を「腫れ」だと 思っているに違いないのだ。腹立たしいことこの上ないが、女に慣れた男から見れば成る程佐助の体は貧弱に過ぎ るだろう。胸は無いし、かりかりの骨のような体に、筋ばかりが際立っていて触り心地も悪い。食指の動く体でな いことは佐助がいっとう良く知っている。小十郎が佐助の体を欲しいと思うことは、ないだろう。 ほんとうなら体ではないものを欲しがってくれればそのほうが良いが、どうせそれは無理だ。 佐助は顔を上げた。 「よし」 ひとつ強く頷く。 障子を見ると、未だ昼の強いひかりが差し込んでいる。 佐助はそれを睨み付け、とっとと沈んじまえと吐き捨てた。 次 |