き つ ね の お て つ だ い 。 その日狐の佐助が兎の小十郎の元を訪ねると、そこには彼が一緒に暮らしている猫の政宗しか 居ませんでした。ドアを開けた途端、すこしばかり鋭すぎる独つ眼の猫ににらみつけられて、 佐助はうんざりと、でもこっそりと息を吐きます。 やれやれ。俺様だってあんたに会いに来たンじゃねえよ。 でもそんなことは言いません。言ったらますます面倒になるばかりなんですから。 佐助はにこりと嘘くさい笑顔を貼り付けて、おはよう、と政宗に朝の挨拶をしました。政宗は 黙ったまま、テーブルの上に置いてあるお皿に視線を移しました。要するに、まるで佐助がそ こに居なかったかのように無視をしました。 なんてかわいくないんでしょう! まだおさないくせに、うちのかわいいわんころとは大違いだな、と佐助は思いましたが、やっ ぱり口に出しては言いませんでした。 代わりにひょいと首を竦めます。 「ねえ、片倉さんどこに居ンの」 部屋を見渡しますが、小十郎の姿は見えません。 いつもなら、佐助の眼には可愛くもなんともない黒猫の傍に、まるでそれが世界にたったひと つの宝物だと言わんばかりに―――実際そう思っているんでしょうけど―――ぴったりと兎は 寄り添っているはずなのです。でも今日は部屋に居るのは政宗ひとりきり。しかも普段はとて もきれいに整理整頓されているはずの家の中が、なんだか雑然としています。 猫の前のお皿にはパンとミルク、それに丸ごとのリンゴ。 佐助は眉をひそめました。 小十郎が政宗に、こんな料理を食べさせるわけがありません。 「いつから居ないの?」 やっぱり政宗は答えません。 たぶん丸一日ってところかな、と佐助は思いました。雑然としているといっても、そう大した ことはありませんし、キッチンに溜まっているお皿もせいぜい一日分です。 昨夜から小十郎はこの家に帰っていない。 そのことが意味するのは、たったひとつでした。 佐助は目を細め、息を吐きました。髪を掻き毟り、くるりと踵を返します。お邪魔しました、 と適当な挨拶を残してドアを開くと、さっきまで置物みたいに黙っていた政宗が佐助を呼び止 めました。おいてめェ、狐野郎。 「何処に行きやがる」 「そりゃお坊ちゃんには関係ないところさ」 佐助は首だけで振り返り、にんまりと笑ってやりました。 政宗はしばらく忌々しげに佐助を睨んでいましたが、そのうち諦めたように「出て行け」と低 い声で唸り、またしいん、と置物になってしまいました。 小十郎は兎です。 頭の天辺にはピンク色の長い耳が二つついているし、お尻にだってふわふわとまあるい尻尾が きちんとついています。紛う事なき兎です。でもあえて言えば、小十郎という兎は、その二つ 以外には兎らしいところがまるでない兎なのでした。 目は細く長く切れていて、その上にある眉毛はちょっと鋭すぎですし、だいいち狐の佐助より 小十郎はずっと大きいのです。いつも野菜ばかり食べているのに、どうしたらあんなに大きく なるんでしょう。不思議でなりません。 そして小十郎はとても強く、男らしく、逞しい兎なのです。 そもそも佐助が初めて小十郎と会ったのは、佐助が大蛇の光秀に襲われて危うく食べられかけ ていたところを、小十郎に助けてもらったのがきっかけだったのです。小十郎はまさに佐助に 振り下ろされようとしていた光秀の長い鎌を吹き飛ばし、ついでに光秀そのものも木の幹に貼 り付けにして、佐助を助けてくれました。光秀を木の幹に貼り付けにしたのはなんとネギでし たが、その瞬間の佐助にとってはそんなことは些細な問題でしかありません。 佐助は呆然と尻餅をついたまま、自分を助けてくれた兎を見上げました。 その兎は、返り血を浴びて、乱れた髪を無造作に掻き上げると、今佐助に気付いたとでもいう ように、すこしだけ片方の眉を持ち上げてみせたのです。 佐助が一瞬でその兎に心を奪われてしまったのは、言うまでもありません。 佐助は小十郎と仲良くなりたくて、助けてもらったあとも何度も彼の元に通いました。でも小 十郎はどうやら肉食動物というカテゴリー全体に対して敵意を持っているらしく、佐助相手に も決して心を許すことはありません。ともすれば佐助が自分たちを―――おそらくは、子猫の 政宗を、というのが兎には重要なのでしょう―――食べようとすると思っているのです。 ひどい誤解だと、佐助は切なくてたまりません。 佐助は小十郎のことが、とてもとてもすきなだけなのです。 ともあれ小十郎は、佐助にも心を許しませんし、普段ならやたらに真っ直ぐな姿勢のままで、 政宗の傍に立ってこちらを睨むばかりなのです。政宗様を食べるなんて考えてみろ、おまえの 尻尾をちょん切って箒にしてやる、と小十郎は言いますけど、佐助にだって言い分があって、 食べるにしたってあんな性格の悪そうな黒猫は願い下げです。でも小十郎にそういう言葉は通 じません。だから政宗と一緒に居る小十郎は、佐助のことを睨んでばかりです。 ふたりきりならそんなこともないのですけど、小十郎は一日中政宗と一緒に居ることがほとん どなので、そんな機会は滅多にありません。 ―――と、佐助はずっと思っていたのでした。 いつごろだったでしょう。 小十郎が、ふらりと、ときどき政宗の傍から居なくなる日があるのに気付いたのは。 それは大抵一日、長くとも二日くらいのもので、翌日には何事もなかったように小十郎は政宗 の傍に寄り添っているのです。 でも確かに、その空白の一日は存在するのでした。 始め、佐助はもちろんその空白の一日の意味なんて解りませんでした。 ただ単純に、政宗と一緒に居ないときなら、小十郎だって自分と話くらいしてくれるんじゃな いかと思っただけだったのです。 ほんとうに、それだけだったのです。 佐助は洞窟の前に立つと、ほう、とひとつ深呼吸をしました。 鬱蒼と茂った森の奥深くにあるその洞窟には、森の動物たちはみんな近寄りません。べつに何 かおそろしい言い伝えがあるというわけでもありませんが、川にも美味しい木の実がある場所 とも遠いので、単に近寄る意味がないのです。 辺りはしんと静まりかえって、風で木々がざわめく音だけが聞こえます。 佐助は洞窟に足を踏み入れました。ひんやりとした空気が全身を包み込みます。ぺたぺたと間 の抜けた足音を立てながら洞窟を進むと、次第にひかりが届かなくなって周りは暗くなってい きました。でも佐助は構わないで先に進みます。 ぺたぺたぺたぺた。 足音が響きます。 そのうち、それに他の音が混じり出しました。 とてもとてもちいさな音です。誰かが息を詰めているような、気配みたいなものです。でも佐 助はもちろんそれを聞き逃しませんでした。尻尾を擦り、てのひらの上に狐火を灯すと、佐助 はぐるりと辺りを見回します。 「片倉さん」 声をあげると、それが反響しました。 でも返事はありません。佐助は目を閉じ、耳を澄ませました。するとちいさな音がもっとよく 聞こえるようになります。苦しそうな息の音です。 佐助はぐにゃりと顔を歪めました。 ああもう、まったく。 「片倉さん、そこに居るンでしょ」 呆れた口調で問いかけても、やっぱり返事はありません。 でも確かに小十郎はそこに居るのでした。佐助はやれやれと首を振ると、右手を翳して狐火を 大きくしました。さっきよりも広い範囲が明るく照らされます。 そこには、やっぱり小十郎が居ました。 小十郎は洞窟の壁に背中を預けて、ずるりとだらしなく座りこんでいます。いつもはきちりと 着込んでいる袴と小袖は両方とも乱れきっていって、そのうえ彼の大きな左手は佐助から見て もてらてらと濡れていて、さっきまで何をしていたのかはもう、一目で分ってしまうのでした。 おそろしく厳めしい顔も今は真っ赤で、ぴんと勇ましく立っているはずの耳だってへなへなと 萎んでしまっているのです。 はあ、と小十郎が息を吐きます。 その息の熱さに、佐助はくらりと眩暈を感じないわけにはいきませんでした。 佐助はでも、喉をこくりと鳴らして、無理矢理にへらりと笑いかけます。 「ほうら、見いつけた」 「―――ッ、うるせ、」 小十郎は、荒い息で悪態を吐きました。 佐助はひょいと首を竦め、狐火をぽう、とてのひらから宙へと移動させ、そのままそこで固定 させました。そうするとますます小十郎の姿がよく見えるようになります。佐助は目を細め、 しゃがみ込みました。小十郎が兎のくせに狼みたいにぐるぐると唸ります。 「出て、け、あほう」 小十郎は膝を立て、背中を丸め、佐助を睨み付けました。 でもさっきも言ったように、小十郎はどこからどう見ても発情期の真っ最中でしたので、普段 なら悲鳴をあげて逃げ出したくなるようなその顔も、まるで迫力を失っています。それどころ か、真っ赤な顔と潤んだ目で睨まれても、佐助の胸はどきどきするばっかりで、まったく怖い なんて思いもしないのでした。 佐助は困ったように笑いながら、首を傾げました。 「俺様が出てったら、あんたも困るでしょ?」 小十郎は、兎なのです。 だから彼はときどき、発情期に悩まされているのです。 それは唐突に訪れる発作のようなものらしく、自分では抑えることも延期することもできない どうにも困ったものなのでした。小十郎はその発作が出ると、政宗の元から逃げるように離れ て、ひとりでこの洞窟に籠もって発作が過ぎるのを待つのです。 すこし前に、佐助は偶然、それを見つけてしまったのでした。 小十郎の赤らんだほおに佐助は手を伸ばします。ほおに指先を触れさせただけで、小十郎は魚 みたいにびくりと体を震わせました。佐助はてのひらで彼のほおを包み込むと、薄い唇にそっ とキスを落とします。小十郎の唇は驚くほど熱く、触れるとそこから溶けてしまいそうなほど でした。 ちゅ、と音を立てて唇が重なります。 佐助の肩に小十郎の右手がやわく添えられました。 「さるとび」 震える声で小十郎が佐助を呼びます。 やめろ、と声は続けます。でもそれでいて、小十郎の手は縋るように佐助の肩を離さず、首は 一度キスをしてから離れた佐助の唇を追うように反らされているのです。佐助はくしゃりと顔 を笑みで歪め、もう一度キスをしてあげました。ぺろりと上唇を舐めてやると、肩にかかった 手の力がより強くなります。ゆるゆると開いた口に舌を差し込み、上あごを舐めると小十郎の 体が痙攣するようにひくひくと震えました。 小十郎はキスがとても好きなのです。 もちろん本人は、絶対に認めないでしょうけど。 佐助は小十郎の欲しがるだけキスをしてあげて、それからぺろりと彼の目元に浮かんでいる涙 を舐めました。ひくりと震える小十郎の体を宥めるように背中を抱いてやって、額をこつりと 合わせます。 そうして、佐助は聞きました。 「たまには俺に頼ったっていいじゃない」 出された声はとても切羽詰まっていて、佐助は我ながらかっこわるいなあ、と思いましたが、 しかたがありません。 なにしろ佐助は、小十郎に恋をしているのですから。 小十郎は佐助の問いに、首を振りました。 でも次の瞬間に、佐助の唇には小十郎のそれが重なっているのです。かあ、と全身に熱が回る 感触に、佐助はたまらなくなって、そのまま自分より大きな体をぎゅっと抱き締めました。 次 |