「こじゅうろう、もう、おれはきらわれるのはいやだ。どうしておれがきらわれなくちゃいけねえん だ?おれはなにかわるいことをしたか?めがつぶれたのはおれのせいか?みにくいのはおれのせい か?おれは、すきでこんなふうになりたかったわけじゃねえんだ。おれはただ、おれはただ」 「はい」 「おれはただ、」 「梵天丸様。泣くのはおよしください」 「こじゅうろう、こじゅうろう―――こじゅうろう」 「梵天丸様、梵天丸様、梵天丸様」 「嗚呼、梵天丸様」 「この小十郎にすべて、お任せくださいませ」 「この世の全ての者が、あなたを愛するようにしてみせましょう」 笑 い 鬼 俺ァ、それはもう醜い面した餓鬼だったからなァ。 右目は潰れてるわ、疱瘡の痕はほおまで下りてきてるわで、おまけに随分陰気な質でもあったから、 お愛想でも近付きたがる奴なんぞ居やしねェのさ。今となっちゃァそれも頷けるが、その時はまだ俺 も餓鬼だろう。まァ、―――恨んだもんだぜ。 何をって? そりゃ、 何もかもをだ。 「おまえには、解らないだろうな」 そう言って、目の前の主はひどくやさしげに笑った。 笑うと常は吊り上がった目がゆるんで、その落差がことさらに主の柔い情を際立たせる。あいされて いるのだという満足感が胸に満ちるような感触がした。主である伊達政宗と自分の他には誰も居ない 座敷には、飾り窓からこぼれる月の淡いひかりだけがぼんやりと差し込んでいる。 てらてらと漆が塗られた酒器を手にする主の指は節がはっきりとしているのに、そのくせ存外細い。 いろがしろいので、酒器の黒と映えてひどくうつくしく見える。 「おまえの親父と会ったのは丁度そんな頃だよ」 政宗は酒器に施された模様を眺め、それから重長の肩越しに飾り窓を見据え、言う。 左様でございますかと重長は言うほかない。政宗は折々、重長を呼び出してはふたりきりでの物語り をする。そうなるとそこで語られるのは、決まって父のことになる。 あいつも嫌われ者だったからなァと政宗は笑う。 出自の低い、枕で成り上がった稚児上がりってよ、評判だったぜ。もっとも俺は餓鬼だったから、枕 も稚児も、どういう意味だか解っちゃァいなかったが、いい意味じゃあねェことくらいは解っていた。 嫌われ者に嫌われ者を押しつけるンだと、まァそう思っていたわけだ。 父も、と重長は口を挟んだ。 「そう思ったと申しておりました、以前」 「Ha!そんなことぬかしてやがったか」 嬉しそうに政宗は笑う。 酒が進む。空になった杯にすかさず酒を注ぐと、気が利くな小十郎はと主が相好を崩す。頭をひとつ 下げると、また主の口から物語りが零れ出す。 仄かに酒でいろづいた主を眺めながら、重長は目を細めた。 枕と稚児。 自分も周りからはそう見られているのを重長はよく知っている。 政宗は他のどの家臣よりも重長を重用しているうえに、戦や政と関わらない場面でも頻りに重長を呼 びつけては隣に置きたがるのである。小十郎、小十郎、小十郎、と呼んでは手招き、何かにつけては 城へ呼びつけ、戦の折には誰よりも傍に置く。 小十郎小十郎小十郎。 主はそうやって重長を呼ぶのである。 「俺ァその頃から、捻くれきった餓鬼だったからよ。怖がられるのも厭われるのも、自分のせいだな んぞ思いもよらねェ。ぜんぶがぜんぶ、周りのせいだと思うんだな。厭われるのも相手が悪ィ、怖 がられンのも相手が悪ィ、まァ糞みてェにかわいげのねェ餓鬼も居たものだと思うが、―――おま えの親父だけは」 怖がらなかったな。 厭いもしなかった。 口に運びかけた酒器を、政宗は床に置いた。 「仕事だからか知らねェが、ずっと横に居てよ、鬱陶しいから一遍どっか行けと言ってみりゃァ、此 処以外に行きたい場所など御座いませんてな言い分だ」 事実だと重長は思った。 事実父は今でもそう思っているにちがいないのである。 政宗は何かを思い出すようにくつくつと肩を笑いで揺らし、偏屈で小言ばかりで鬼みてェな面して、 だが俺は随分救われた、と重長を見ながら、その先の何かを見据え、言う。思わず歪みそうになる顔 を必死で平坦に均し、勿体ないお言葉でございますと重長は頭を下げた。 政宗は父の話をするために重長を座敷へ呼ぶ。 それ以外のことを、重長はされたことがない。 何も強いて若衆になりたいと望むわけではないけれども、重長はそれを苦々しく思う。周りは皆、重 長が政宗の寵童であることを疑いもしないのである。 その視線が殊更に厭わしい。 指一本触れられたことなどないのである。 「時に聞くが」 政宗がふと思い付いたかのようなふうを装い、重長を見た。 重長は基より問いかけられることを予期していた問いに、それでも首を傾げてやった。 「はい」 「親父は元気か」 「相も変わらずといったところでしょうか。悪くなったということもございませぬが、よくなったと いうこともございませぬ。床に入り、日がな一日天井を見上げておりまする」 「城には来れないか」 「畏れながら」 「俺が行けばどうだ」 「父は政宗様にお会いしたくないようです。息子ながらに、痛々しいほどに衰えておりますれば」 「Shit!」 そんなもの、と政宗は憎々しげに吐いた。 病を得た父は、もうここ二年青葉城に登城していない。政宗は頻りに見舞いに白石城を訪れるが、そ れでも決して顔を合わせようとはしないので、かつては双龍とまで称された睦まじい主従は、矢張り まるまる二年間対峙していない。 父が「小十郎」という名を重長に与えて隠居したのも、その頃である。 以来政宗は、父のことを官位である「備中」と呼んでいるが、実際にその呼称を父に対して使ってい るところを重長は聞いたことがない。 主と父はそれほど長い間、離れている。 「ガリッガリの茄子みてェになったところを笑ってやりてェってのに、熟々詰らねェ野郎だぜ」 主の笑い声はどこか歪んでいる。 どことなく滑稽にすら聞こえるその笑い声を聞きながら、重長は今頃はもう床に入っているであろう 父の顔をつらつらと思い出していた。 鬼だ、と云われている。 父のことである。 戦場での父を、重長は噂でしか知らないがその頃からそう呼ばれていたようだ。なにしろ剣の腕では 未だに一本も取れないので、さぞや勇壮であっただろうことは想像に難くないのだが、それ以上に戦 場での父はまったく鬼そのものであったのだという。 曰く、ひととは思えぬ残虐な殺し方をした。 曰く、知略の冷酷なことは赤い血の流れを感じさせぬ。 噂は絶えず、それは父の武功を称えるのとおんなじだけ、それ以上の重さを伴い重長の耳に入ってく る。決して非難がましいわけではなく、ほとんど賞賛と変わらないはずのその噂は、それでも重長の 持つ父への感触を頑なにした。 そうか父はひとではないのか。 そう思わせるに足るような父だった。 重長は父にあいされた記憶がない。父が笑ったところも、和らいだ顔を見せたところすら見た記憶が ない。決して厭われたわけではないが、あいされたと実感したこともなかった。おさないときは随分 そのことで苦しんだものだが、長じてから理解したのはつまるところ、父は自分に興味がないのだと いう、その単純な結論である。 その結論はそれなりに重長を慰めた。 父はつまり、誰にも興味がなかったのである。 だから父が鬼だと、ひとではないのだという話を聞いても不思議には思わなかった。むしろ安堵した ものである。ひとではないのなら、あいするという感情を父が持たずとも何も不思議はない。自分が あいされなかったのは自分のせいではないのだ。母は誰より重長をあいしたので、重長は決して卑屈 なこどもには育たなかった。母に似て整った容貌を持ち、父譲りの剣の才を擁した若い青年を、家人 も、伊達家のひとびとも皆あいしたのである。 父だけが相変わらずそっぽを向いていた。 鬼なのだから仕様がないと重長は考えるようになった。 鬼はそのうち病に倒れた。鬼でも病には勝てぬのだと重長は滑稽に思った。床に臥せり、戦場に出る ことが適わなくなった鬼は重長を枕元に呼び、家督と「小十郎」という名をあっさりと譲った。鬼が 重長に命じたのはおかしなことばかりだった。 一つに、決して名君とならぬこと。 一つに、決して家の繁栄を願わぬこと。 一つに、決して自らの命を慈しまぬこと。 「それが出来ぬのならば「小十郎」の名は何処かへ棄てるといい」 重長には鬼の言葉が理解できなかった。 家督を継ぐ者に対して、家の繁栄を願うなとはどういうことだろうかと思った。実際鬼は民にひどく 評判が悪く、重長は家督を譲り受けた早急に税の制度を変えようと思っていたので、出鼻を挫かれる かたちである。片倉家は十分に富んでいて、伊達家全体の方針である富国強兵のおかげでことさらに 税を厳しく取り立てる必要などどこにもない。鬼のすることは、敢えて自らの評判を落とそうとして いるようにしか重長には思えなかったが、――― 矢張りそうなのだろうか。 それとも、と重長は思う。 鬼はひとの不幸を望むものか。 ともあれ鬼の生きている間はそれを破ることができない。だから相も変わらず、意味もなく片倉の家 は民に評判が悪いままだった。政宗が富国を成し遂げ、税もそれに伴い低くして民に喝采を浴びてい るのとは対照的である。伊達家のお歴々からも散々な叱責を受けた。重長はその度、困ったようにあ いまいな返答で誤魔化す他なかった。 不思議と政宗は何も言わなかった。 母も何も言わない。 母は鬼をあいしているようである。 理不尽な鬼の命を話しても、母は笑うだけだった。 「あの方がそう仰るなら、仕様がないことね。この家はあの方が作ったのだから、どうしようとも、 それはあの方の御一存ですもの」 母は決して弱い女ではなかったが、こと鬼に関わることとなると途端に語調を下げてしまうのが常で あった。それもまた重長には気に入らないことのひとつだった。 その態度を隠さずに現わすと、母は決まってまた笑った。 「次の当主はおまえなのだから、あの方が死んだ後は好きになさい」 母はそういうことを平気で言う女だった。 それでいて、その笑顔はどことなく淋しげで、鬼がいつか死ぬことを考えるだけで母はかなしいので ある。そんな顔をされてしまえば重長も黙る他なかった。 鬼は段々に衰えていった。 けれどもその速度は、重長が政宗に告げたほどには急速でなかった。今でも登城しようとすれば可能 であるし、ましてや床から出られないということはない。時々は稽古に出てくることもあるし、遠乗 りに出ることもある。それでも鬼は政宗と頑なに会おうとはしなかった。その由も矢張り重長には解 りようがなく、主であれども鬼はあくまで苦しめたいのだろうかと思うくらいが関の山だった。政宗 は端から見ても異様なほど、鬼に執着している。それは鬼が政宗の前から姿を消すのとおんなじに、 益々強まっていくようだった。 政宗は重長を傍に置いては、笛を所望した。 そしてひどくいとおしげに、 「小十郎」 と呼ぶのだ。 次 |