「私しあわせよ、あなた」 その声は襖に遮られてきっと相手には伝わらないままに、夜の向こうへ消えていった。 幸 い な る か な 夢 の 跡 領主であり、父の主でもある伊達政宗が唐突に屋敷へと現われたのは皐月も終わるある夜のことだった。 日中は汗すら滲むような季節になったが、それでも夜の風は羽織が入り用なほどにはつめたく、けれども 決して鋭くはない。つたは父に言われていたように精一杯めかしこんで、若い領主の御前へと出た。 「これが、娘のつたにございます」 頭を下げていたので、父の顔は無論見えない。 けれども声は常のものより強張っているように聞こえた。無理もない、とつたは板間を見ながら思う。自 分もこれ以上ないほど緊張している。況んや父は尚更だろう。元々、城主が直々に訪れるような家格の家 ではない。つたの父である矢内和泉重定は検断職にある。代々とそれを継いでいる父は、確かに堅実では あるのだろうが出世とは程遠い。また堅苦しい性質上も、奔放で新奇を好む若い奥州筆頭とはそりが合わ ないはずである。どうしていいか解らぬというのが父のほんとうだろう。 それはつたもおんなじである。 板間に突いた指も震えている。 顔を上げろ、と言われ、静々とそれに従う。 「Ah,―――噂通りの別嬪さんじゃあねェか」 開かれた障子から差し込む月のひかりが、目の前に座す若い領主のほおを照らしていた。右目は眼帯で覆 われているが、あらわな独つ目はそれひとつきりでも十分なほどの威圧感を相手に与える。黒髪はつやつ やと肩まで下りて、意匠の凝らされた青鈍の小袖はすずしげで、噂に聞く勇猛果敢な若武者というよりも 穏やかな嫡男というほうが余程似つかわしく見えた。 つたはしばしそれに見とれ、それからはっと気付いて慌てて会釈をした。 「勿体なきお言葉にございます」 「楽にしてくれ。急に来て悪かったな。堅物矢内にゃ不釣り合いの娘が居ると聞いてな、矢も楯も居られ ずつい見てみたくなッちまってよ」 笑みを浮かべ、杯を持ち上げる。 一見粗野にすら思えるその仕草も、政宗がするとどことなく品があるので不思議だった。これが産まれも ってのものだろうかとつたは思う。年は幾つも変わらぬはずであるけれども、政宗は自分より余程長じて 見え、またおんなじように若くおさなくも見えた。 つたはちいさく震え始めるおのれの胸を持て余した。 政宗が自分に合いたがっていると、父がつたに伝えてきたのは十日ほど前のことである。家内はそれで一 挙に沸き立った。領主が直々に会いに来るというのは、つまるところ彼がつたを見初めたことに他ならな い。政宗にはすでに愛姫という正室が居り、また他にも幾人かの側室が居るけれども、矢内程度の家格の 娘がそこに名を連ねることなど普通ではありえない。母は泣いて喜んだ。家の者はてんでにつたを祝福し た。父は喜ぶよりも前に緊張していた。 つたはといえば、特に嬉しいとも思わなかった。 父の家格を思えば、何処ぞの相応の家の嫁になるしかない身である。そしてつたはそれを特に不足とは思 っていなかった。自らを省みればそれが相応であると思った。政宗の言うように、多少容色に自信がない わけではない。ただそれにしても傾城というほどでもなく、小町にもほど遠く、そしてなにより政宗の室 に入るということは、愛姫を頂きとした奥向きのせせこましい世界に入らざるを得ないことを意味する。 そう思うと幾ら見初められたといってもそこまで手放しに喜ぶ気にはならなかった。むしろそこで自分の 運命が否応なく決められてしまう不愉快のようなものすら感じた。父の立場上政宗が自らの側室にとつた を望めばそれを断ることができるわけがなく、また父が命じればつたはそれを否と言うことができるわけ がなかった。 政宗は上機嫌で杯を重ね、そして程なく口を開いた。 「なァ、重定。このつたをな、何処ぞに嫁にやる気はねェか」 つたは身を固めた。 父のほうを見ると、思ったより落ち着いている。覚悟はしていたのだろう。つたは控えたままに目を瞑り、 話の行方をただ待った。そして聞いていると、政宗がしているのはどうも家中の者の考えとはまったく異 なる事だった。 政宗はつたを側室にしたいわけではなかった。 つたや父が戸惑うなか、愉しそうに政宗は言葉を続けた。 「うちの家老は知っての通り堅物でな。もう二十も終わッちまうってのにまだ独り身だ。何処ぞに好いた 相手が居るのかと思えばそれもねェと言いやがる。些ッと焦れったくなっちまってよ、もしつたさえ良け りゃァ、一遍会ってみちゃくれねェか。小十郎って男はな、まァ些ッと堅苦しいきらいはあるが、」 俺が言うのもなんだが、飛び切りの好い男だぜ。 そう結んで、政宗はぎょっとするほど穏やかな笑みを浮かべた。 つたは再び若い主の顔にぼうと見とれた。吊上がった左目は、開かれているときはぞっとするほど鋭利な のに笑みに細められるとおさなく見える。顔形以上に、自分のはるか上に位置する人間がそんな顔を自分 に見せるという事実そのものにつたはうつくしさを感じた。 それとおんなじに、この方がこんな顔をして話す「片倉小十郎」とはどんなおひとだろう、と思った。 父や家の者たちは、突然の話の流れに戸惑っているようだった。つたも小十郎の噂は耳に入れているが、 つまるところ成り上がり者である。戦働きでは地味とはいえ、それなりの歴史を持つ家である矢内家の娘 が嫁に行く家ではない。父はどう断ろうかと思案しているように見えた。それをふと視界の端に捉えた瞬 間、つたは考えるより前に口を開いていた。 「片倉様は」 場の視線がざあっと此方を向く。 つたは一瞬怯んだが、構わず言葉を続けた。 「どのような、御方なのでしょう。お話でだけは窺っておりますけれど、つたは、なんだか怖い御方のよ うに記憶しております」 そう言うと、弾かれたように政宗が笑い声を上げた。 「AH、そいつは残念ながら本当だな。あいつは怖ェ男だ。四六時中般若みてェな顔をしてやがる」 「それは、おそろしゅうございますね」 「But、性根のほうは些と違うぜ」 父がこちらを睨んでいるのが解ったけれども、つたは見なかったことにして政宗の目を見返した。ひとつ きりの左目はやさしげに細められて、口元は解るか解らないかの境目で笑みを象っている。 小十郎はな、と政宗は言う。 「俺の兄で父で師で二無き友だ。俺の知っている他の何奴よりも好い男だ」 「何方よりも」 「おう」 「それは」 つたはにこりと笑った。 「つたも、是非会ってみとうございます。御館様がそうまで仰る御方ですもの」 父や家の者がどう思うかはつたは知らない。 けれどもつたは小十郎に会ってみたかった。家には姉が居る。家を継ぐのは姉の婿である。ならばつたに は良人を選ぶ権利が姉よりはあるはずだった。けれども待っていればどうせ良人は父に選ばれる。 どうせなら、政宗があんな、おそろしくやさしい顔で語る男の妻になってみたかった。 政宗は手を打って喜んだ。それならばすぐにでも見合いをということになった。十日後にはつたは小十郎 と顔を合わせることになった。家では皆が反対をしたいようだったが、政宗の取り持ちでは誰も表立って 何かを言うわけにもいかず、つたは政宗の妻である愛姫が用意した、今まで夢にも見ないほどに綺羅びや かな小袖を着て小十郎と対峙した。 晴れた日で、障子からはゆるい日が差し込んでいた。 小十郎はつたより十ばかり上の男で、隆々とした体ははるかに大きく、まるで型に体を流し込んだかのよ うにかっちりと真っ直ぐな背中をしていた。それは確かに、一見はすこしおそろしく見えた。 決まり切った挨拶を幾つか済ませ、それからつたは小十郎とふたりきりで座敷に残された。若い男とふた りきりになる機会など生まれてこの方一度きりもなかったつたにしてみれば、それは息をするのも困難な 空間であったけれども、小十郎は特に眉ひとつ動かすでもなく、矢張りやたら真っ直ぐに正座をしている。 しばらくしてから、小十郎が口を開いた。 「つた殿」 「―――、は、い。はい」 「つた殿は、何故小十郎との此度の会合を受けてくださったのですか」 矢内殿は渋ったでしょう、と小十郎はすこし笑みを浮かべた。 能面のような顔がすこし綻んで、途端につたは弛緩した。ほうと胸を撫で下ろし、こちらもできうる限り 親しげに見えるよう笑みを返す。 「御館様が、政宗様が、あなたさまのことをお話しにいらっしゃいました」 「政宗様が」 「ええ。そのときのお顔が、とてもやさしげだったので」 それでお会いしてみたくなりました、とつたは言った。 小十郎はすこしぼう、とつたを眺めていたが、そのうちに沸き上がるものを堪えかねたように笑った。 「そうですか。政宗様が」 つたは思わず目を伏せた。 小十郎の浮かべた笑みはとても唐突なものに見えた。あの顔からそんなものが浮かんでくるなんて思って もみなかった。政宗が小十郎のことを語るときの顔が浮かんだ。彼もまた、今の小十郎とおんなじような 顔をしていた。つたは目を上げた。小十郎が此方を見ている。 厳しげな顔は、一旦ゆるむと、そのゆるみが満ちた分ひどくやわらかいものに見えた。 「つた殿」 「はい」 「ご存じかと思いますが、片倉の家は未だ卑小。家人も定まっておらず、郎党もろくに揃っておりません。 ただ頼りにすべきは、僭越ながら小十郎のこの身ひとつと言っても過言ではない。決して安楽な生活は できぬでしょう。ですが、」 政宗様がお選びくださった御方です、と小十郎は言う。 「この小十郎の可能な限りの力で、あなたを幸せにすると誓います」 つたは夢中でただ頷いた。 本来ならば父の了解を得るべき段階を外してでも、そこでは頷いておかなくてはならない気がした。逆に 小十郎に笑われたくらいの必死さだった。小十郎は首を振り、矢内殿とご相談ください、と静かに言った。 つたはそういえばそうだとそこで気付いて、はしたなくも吹き出してしまった。小十郎はその様子に矢張 りちいさく笑みを浮かべてくれた。 輿入れは秋にということになった。 政宗の手前断ることができない父は不満げだったが、つたは有頂天だった。 政宗も何度か家を訪れた。政宗はいつもひどく上機嫌だった。折々に小十郎と政宗とつたと三人で何処か へ出掛けることもあった。小十郎はいつもとてもやさしかった。政宗を見る目はそれこそ兄のようでも師 のようでも友のようでもあった。小十郎の前に居る政宗は領主とも思えぬほどおさなげで、童のように奔 放で、そしていつも小十郎に叱られていた。つたはそれを見るのがとてもすきだった。 政宗も小十郎もつたにやさしく、彼女をいつも気遣ってくれた。 夢のようだとつたは思った。 おさない少女が夢見るすべてがそこにあったのだ。 つたは輿入れの日を指折り数えた。それは遠いようでいて近く、程なくしてつたの元へ悠然と訪れた。つ たは小十郎の妻になった。 静かな秋の夜だった。 閨の障子の先では薄が揺れていた。 小十郎は閨でもやさしかった。ぎやまんか何かを扱うようにつたに触れた。つたは小十郎に抱かれながら、 きっと自分は三国一幸せな女だろうと思った。うつくしい領主が愛するやさしい右目の妻である。他に何 か不足があるだろうか。 すべて終わった後、小十郎に額を撫でられてつたはゆったりとほほえんだ。 「おまえさま」 そう呼ぶと小十郎は矢張りやさしげに笑みを浮かべる。 つたは小十郎の手を取って、自らのほおにそうと寄せた。 「おまえさま、私、幸せです。とてもとても幸せです」 「そうか」 小十郎は満足げに息を吐いた。 小十郎はつたが「幸せだ」と言う度、そういう顔をした。つたはそれで、何度も何度もそれを言ってやっ た。言う度小十郎はつたにやさしくなっていった。片倉の家を仕切るのは、それまで箱入り娘であったつ たには少々荷が重かったけれども、良人に愛されているという自信がつたを支えた。良人の姉もやさしく、 また政宗が折に触れて訪れてくれるのもつたを助けた。 嗚呼なんて自分は幸せなんだろうとつたは幾度も思った。 「おまえさま。私、ほんとうに思いますの」 つたはいつであったか、小十郎にそう言った。 小十郎は戦を終えて帰ってきたばかりだった。その戦でも生きて小十郎が帰ってきてくれたこと、またほ とんど傷を負っていなかったことがつたは矢張り幸せで仕様がなかった。具足を脱ぎ、身を清め終えた良 人に着流しを着せながらつたは彼の背中にそうとほおを寄せ、うっとりと言った。 「私ほど幸せな女は天竺まで探したって、きっと居りませんわ」 「それはちがうな」 小十郎は珍しく反論した。 つたは驚いて小十郎の背からほおを離した。 「何故そんなことを仰るの」 「愛姫様がいらっしゃるのをおまえは忘れているんじゃねェか」 「愛姫様」 「あァ」 政宗様の御方様だ。 小十郎はするりと兵児帯を締め、当然のように言った。 「政宗様の御方様がこの世でいっとう幸せに決まっている」 つたはしばらく黙り込んだ。 それから吹き出した。小十郎は不思議そうに笑うつたを見下ろしている。つたは笑いながらおかしいわ、 と言った。おかしいわ、おまえさま、そんなこと仰るなんてとてもおかしいわ。 「嗚呼、おかしいわ」 つたは息も絶え絶えに笑った。 そうかな、と小十郎はあくまで不思議そうな顔をしているばかりだった。 次 |