それこそたった一滴の液体で色を変えるビーカーの中身のようなものだ。 こんな簡単にひとって変わるんだと知った。 変化する躯。 単身赴任だと言う。 佐助はスプーンを口にくわえてぶらぶらと揺すって、へえ、と言った。旦那にぺしりと頭を叩かれる。 かちゃん、とスプーンが落っこちた。 「下品だ」 「ごめんなさい」 シチューに浸かってしまったスプーンをティッシュ越しに持ち上げて謝る。小十郎は顔をしかめたまま、おまえの謝罪に はちっとも心がこもってねェな、と言う。なんてこと。佐助はスプーンを拭きながら抗議した。俺の言葉はいつだって真 実しかこもってねえよ。 「ただすぐに忘れちまうだけでー」 「同じだ、阿呆」 呆れる旦那の眉間のしわは今日も深い。 一ヶ月はあっちに居ることになる。小十郎はシチュー皿を空にして、サラダボウルからレタスを取り分けながら続ける。 佐助が俺にも頂戴と言うのはきれいに却下された。しょうがなく小十郎が使い終わったフォークを奪い取って自分で取り 分ける。 トマトを避けたら怒られた。 「一ヶ月」 「あぁ」 「長いのかな、それ。それとも短いの?」 「平均的じゃねェか」 「ふうん」 嫌がらせのように小十郎が放り込んできたトマトで真っ赤になった取り皿を睨み付けつつ、佐助は聞いた。何処行くの。 小十郎はレタスを器用に四つに折りたたんでフォークで突き刺して口に運んだあと、大阪、と答えた。佐助がふいと顔を あげる。 「大阪」 「あぁ」 「・・・いいな」 「そうか?」 「食い倒れじゃねーのさ」 俺も行きたい。 肘を突いておかしなことを言い出す嫁の笑顔を、旦那は無表情のままに掌で思い切り押した。がたんと椅子が後ろに傾く が、あやういところでまたがたんと戻ってきた。 倒れるんですけど!とわめく嫁を旦那はきれいに流す。 「仕事だ、阿呆」 「うん、まあ冗談だよね、これふつうに。俺今冗談でちょっと生命の危機感じちゃったぜ」 「俺の前で言うんだ。それくらいの覚悟で言え」 「いつから新婚家庭ってそんなバイオレンスな場所になったのさ」 息を吐きながら、トマトをつんつんとフォークでもてあそぶ。 いつ行くの、と聞くと小十郎は一週間後、と答える。旦那の脳内ヒエラルキーにおいて家庭が底辺にあることは佐助もよ く知っているので、その強行スケジュールのことも何も言わずにそう、と言うに止める。 そう、もうすぐなわけだ。 「おみやげは三つ以上ね」 「仕事だっつってんだろうが」 「いーじゃねーか。こちとら新婚さんなのに一ヶ月も旦那さまにほっとかれるんだぜ? そんくらいの甲斐性見せてもばちはあたんねーと思いますけどーお」 「・・・めんどくせェ」 「・・・おいこら」 浮気すんぞ。 舌打ちを隠さない旦那にそう言うと、はん、と鼻で笑われた。なんという腹立たしさだろう。が、てめェにそんな面倒な ことをする気力はあるまいよと言われて佐助は黙った。図星だ。シチューを食べ終えた佐助は、旦那を睨み付けるのはや めたが、やはり悔しかったのでやっぱりおみやげは四つだな、と旦那にスプーンをつきつけてやる。 旦那は無言でそのスプーンをたたき落とした。 一週間経って、旦那は家から出て行った。 朝六時には家を出なくてはいけなくて、佐助は目覚まし時計を三つもかけて五時に起きようとしたけれど、結局三つとも 止めてしまって旦那にぺしぺしとほおを叩いて起こされた。寝ぼけていたので朝のベーコンエッグの出来は、結婚してか ら作った摩訶不思議なこけた料理のなかでも最高潮におそろしい出来だった。 が、旦那はそれを黙々と食べる。 「最後くらいおいしいの作りたかったんだけどなあ」 と言ったら笑われた。 最後じゃねえだろべつに。佐助はほおづえをついて、まあそうだけどね気持ち的に、と答える。 小十郎と会ってはや半年、一月も離れていたことなど一度もない。旦那は夜は遅く朝は早く、休日出勤出張遠征、どれも これも一切厭うことがない今時珍しいほどのワーカホリックなうえ、その性質が淡泊なので世間一般の新婚家庭に比べれ ばずいぶん淡々とした生活ではあるのだけれど、 「一ヶ月なぁ」 「どうした」 「俺、それやっぱり長い気がする」 小十郎は佐助のことを忘れないだろうか。 黒くなったベーコンをフォークで刺しながら旦那が呆れて目を細める。 「おまえは俺のことを痴呆症の老人かなにかと勘違いしてねェか」 「あんたさ、結婚式の次の日の朝、俺になに言ったか覚えてねえだろ」 「・・・あァ?」 「ああ、覚えてねえんだやっぱり。あんたの史上最悪の台詞」 小十郎と佐助は、結婚までセックスをすることはなかった。 べつに結婚までは綺麗な体で居ようなどと思うほど、おたがい綺麗な体ではないのは分かり切っている。大体いい年した 男が綺麗な体だったらそっちのほうが不気味だ。結婚前の何回かの会合――あれはデートとはちがうと思う――で、酔っ ぱらった佐助はへらへら笑いながら「片倉さんってえっち上手そうだよねえ」とか暴言を吐いたらしいが佐助は知らない。 それでセックスをしなかったのは何故か、と言えば簡単だ。 単に時間が無いのとあんまり関心がなかったということに尽きる。 あとどっちが下なんだろうという疑問が、すくなくとも佐助の頭のなかでは渦巻いていた。嫁は俺なんだからやっぱり俺 が下なのかね、わお痛そうだなぁやになっちゃうぜ。そんなことを考えていたら結婚式当日がやってきてしまった。 どっちが下だったかという話はまたの機会にするとして、翌朝ベッドからむくりと体を起こした小十郎は、その切れ長の 目をまぶしげに細めて、自分の横に寝そべる嫁を見てひとこと。 「・・・・・・・・・・・・・・・誰だ、おまえ」 と、のたまった。 すわ結婚初日から旦那が記憶喪失かと佐助があわてていたら、しばらくしてから小十郎は目を眠そうにこすって、もうい ちど佐助を見てから、ああそうか結婚したのか、とぼんやりと言った。そうかおまえ嫁か。 佐助は声も出せなかった。 非道すぎる。 「・・・そんなこと言ったか」 「言ったね」 「覚えてねェ」 「じゃあ若年生アルツハイマーだ」 アロエヨーグルトをスプーンで混ぜながら嫁は真顔で言う。 「もう三月暮らしてんだぞ」 「あっちで一月社長と暮らしてたら、なんか変な手術とかさせられて俺の記憶抹消させられるんじゃないの」 「おまえはうちの会社をなんだと思ってる」 「会社には何の思いもないよ。社長にあんだよ社長に」 伊達政宗は結婚祝いに離婚届を佐助に手渡す男だ。 小十郎が佐助と離れたのをこれさいわいと、それくらいのことをしても佐助は一切驚かない。 「怪我しないようにね。病院に行ったら絶対ぇあんた記憶改竄される」 「ドラマの見過ぎだ」 「事実は小説より奇なりって言うだろ」 「付き合えん」 かたん、と椅子を立って小十郎は軽蔑の視線を嫁にやった。 時計を見るともう出発五分前にまで短針がせまってきている。トランクをころころ転がす旦那の後ろを歩きながら、この 背中も見納めかあ、と佐助はつぶやく。おまえは俺に帰って来て欲しくねェのか、と旦那に睨まれた。 「まさか」 どうしてそうなるんだろう。 小十郎は呆れて嫁のまだ寝ぼけている顔を二三度手の甲で叩き、戸締まりと火の始末はしっかりしろよとまるで留守番の 子供に言うように言い残して行ってしまった。 いってらっしゃいのキスなどもちろんない。 旦那が出て行ったあとの部屋はやけに広く感じられた。 まあ。佐助は髪の毛をワックスで逆立てながら思う。まあ、あのひとでけえからな。かさばるよな。 旦那を置物扱いした嫁は、朝食を片したあとソファに沈み込んで天井を見上げる。さてどうしたものか。小十郎は今日か ら一月帰ってこない。 (ちょう自由の身じゃーん) へらりと笑う。 旦那が帰ってこないということは、夕食の用意も早朝からの朝食の用意もワイシャツのアイロンかけもしなくていいとい うことだ。佐助はだらしないわけではないけれど、世間一般の男性とおなじくそこまで家事に神経質ではない。小十郎が すこしおかしいのだ。 そういう駄目な嫁に、旦那はなんの文句も言わない。が、それでも無言の重圧はあるし、佐助としてもスーツしか似合わ ない旦那のワイシャツはきっちりさせてあげたいという嫁心くらいは持っている。なのでそれなりには頑張らなければい けない。なんといっても佐助は新妻なのだ。 が、今旦那は居ない。 ひょいとソファから身を起こし、着ていたパジャマを脱いで丸める。寝室へ行く途中でそれをぽい、と脱衣カゴに放り込 んでから、タンスを探った。いつもは二段目にみっしりと詰まっているユニクロアイテムで済ませるのだけれど、今日は 三段目から余所行き用の服を選ぶ。せっかく時間を気にしなくていい身分になったのだ。 「遊ばなけりゃ、うそでしょー」 グレイのニットと、ボーダーのタンクトップをひょいひょいと摘み上げる。 クローゼットからサニエルジーンズを引っ張り出して、それからジャケットもベッドに放った。よし完璧、と佐助は腰に 手を当てて、ベッドサイドに置いてある情報誌を手に取る。いくつか興味のある映画に赤いペンで丸がつけてある。 枕元に置いてある携帯を開いて、元同僚の真田幸村に電話をかけた。 ワンコールでぴ、と幸村が出る。 『もしもし』 「あ、真田の旦那。おれー」 『おお、佐助!』 「今日暇だったりしねえ?」 『うん?特に何もないでござるが』 「そりゃーすてき。じゃあ俺様と映画見に行こーぜー」 もちろんでござる、と幸村は続けようとしたらしい。 が、それは「もちろ」のところまでで終わってしまった。幸村は口ごもって、いや、その、と歯切れ悪くなにかもごもご 言っている。佐助は首をひとつ傾げてから、ああ、と笑った。 「だいじょーぶだって、今うち旦那さんいねーし」 『・・・それはますます大丈夫じゃない気がするでござる』 「つーか居たら居たでべつになんも言わねーよ」 『そうでござるか?』 「そーそー」 幸村は小十郎に遠慮をしているらしい。 佐助は思わず涙ぐみそうになった。なんという謙虚な態度だろう。どこぞの馬鹿社長にも見習わせてやりたい。小十郎と 佐助のマンションの部屋に、なぜか自分と小十郎のペアカップやら歯ブラシやらを置いていくどこぞの馬鹿社長に。 幸村はそれでもすこし黙っていたが、そのうち行くでござる、と笑った。 「さっすが真田の旦那。それじゃ、一時間後に映画館の前な」 電話を切る。 服を着て、カーテンを開いた。四月の空はきらきらと薄く青い。風が強くて、木の葉がくるくると螺旋を描いていた。き れいな季節だなあ、と目を細める。 そういえば結婚してからはじめての春だ、と気づいた。 旦那が居なくてもそれは勝手に来て、そして旦那と入れ違いにきっと去ってしまうのだろう。 ぬるまったい太陽のひかりを顔に受けながら、佐助はそうぼんやりと思った。 幸村と映画館で落ち合い、映画を見て昼食を食べてからカラオケに行った。 佐助の旦那は間違ってもカラオケなど行かないので、久々のそれはとてもたのしかった。 ということを嫁はその夜旦那に報告した。 夜九時以降にならないと電話をしてはいけないと言われていたので、きっちり待って九時にかける。 コール三回で旦那は電話口に出た。 「喉つぶれるね、さすがに五時間をふたりでってーのは」 『よくやるぜ』 呆れたような声が返ってくる。 佐助はゲームセンターで取った大きなビーズクッションに頭を乗せながら、電波に乗った旦那の声に耳を澄ます。窓がが たがたと強い風で揺れた。そっちの天気はどうなの。佐助が聞くと、すこしだけ間があって、旦那がまだ雨が降っている、 と答える。ぽつぽつ。音がした。 たぶん雨が窓に当たる音だ。 「そっか。そりゃ残念」 『明日あたりには、東京のほうに行くだろ』 「へえ。じゃあ明日は家に引きこもってよーっと」 『予報くらい見ろ』 「そりゃ、あんたの役目だねえ」 くつくつ笑いながら言うと、ため息が返ってきた。 洗濯物を濡らすなよ。足を組みながら佐助は了解、と短く言う。もともと明日洗濯をするつもりはない。 「あんたが居ないと、洗濯物がすくねーよ」 二人分が一人分になる。 洗い物もすぐに終わってしまった。 『結構じゃねェか』 「そうだね。水の節約になるわ」 『経済的だ』 「うん」 切るぞ、と小十郎が言う。 わかった。佐助は答えた。それから付け加える。おやすみ。 淡々とした声が、おやすみ、とひとこと言ってから通話はぷつりと切れた。 携帯を閉じて、足を投げ出す。 さてこまった。佐助は眉を寄せる。無口な男と電話で間を保たせるのがこんなに困難だとは思ってもみなかった。明日か らどうしようー、と佐助はクッションに顎を乗せて足をばたつかせる。あの男と毎日電話するネタが暇な主婦の日常に起 こるとは到底思えない。 しなくてもいいと言えばいいのだけれど、 「・・・声は聞きてーよな」 仮にも旦那だ。 部屋はやけに広いし、時間はなんだかゆっくり流れていく。 これもそれもきっとあの大きい男がこの部屋に居ないからだ、と佐助はうんざりとした気分になった。自分以外の人間が こんなになかのほうへ浸食してきているという事実がなんだかひどく気色悪かった。半年前には佐助は小十郎の顔も名前 も知らなくて、まさか旦那にするとは思ってもみなくて、それまでの人生はそれできちんと成り立っていた。 二十七年の人生が、たった半年であきらかに変質しようとしてる。 (こえーな、結婚って) 佐助はひとに影響されることなどほとんど無く今まで生きてきた。 結婚しても、それはおなじだと思っていた。旦那は佐助になにかを要求することはほとんどない。生活態度を改めろとも 料理の腕をあげろとも、遊びに行くなともなにも言わない。なので佐助は、ああ結婚っていっても要するにセックスする 相手が固定化するってことくらいなわけだ、とへらへらと思っていた。 顔はちょっと怖いけれど整っていて、背は高くて給料は良く出世の見込みも間違いない。おまけに作る飯は食えればいい と言うではないか。仕事で家にあまり居ないというのも佐助としてはありがたかった。 ひとりのほうが気楽に決まってる。 結婚なんていつかは背負わなければならない荷物みたいなもので、だったらそれはできるだけ軽いほうがいい。 小十郎は軽そうだった。 大体佐助になにか背負わせるつもりがそもそもなさそうだった。 ――――私はいい夫にはなれません。なるつもりもありません。 見合いのときに小十郎はそう言った。 おいおいいきなり破談かよーと呆れるを通り越して、すこし笑ってしまいそうになった。冗談かとも思ったけれど、目の 前に正座をしているあんまり堅気に見えない見合い相手は、そういうことは言わなそうに見えた。はあ。佐助は炭酸が抜 けたコーラのように気の抜けた声を出した。はあ、なんでまた。 一番大事にして欲しいなら、私は結婚相手としてはお奨めできかねます。やはり真顔で小十郎は言い、私はもしあなたが 交通事故で病院に運ばれても社長がひとこと行くなと言えば迷うことなく止まります、と続けた。ずいぶんな言葉だ。会 って三十分で別れ話でもされているような気分だった。 佐助は思わず腹を抱えてけらけらと笑ってしまった。 目を丸くする小十郎に、おもしろいひとですねえ、と涙ながらに言った。 それくらいが丁度良い、と思った。 佐助だって旦那に尽くすつもりなど毛頭ない。大事にされないなら、しなくてもいいだろうとそう思った。 一緒に暮らす相手として、小十郎はきっと面白い。正反対の性格は、いっそ似た者同士よりいいかもしれない。片倉さん とならうまくやっていけそう。たしか佐助はそう言ったと思う。 小十郎なら、佐助の生活ペースを乱さないでいてくれるだろうと。 (とんだ間違えだったみてえ) 体がどこか、作り替えられたのではないかと思う。 きっと知らない間に、佐助の体には小十郎がするりと入り込んでいて、勝手に居なくなってしまったからそこがぽっかり 穴が空いてしまったのだ。すうすうする。ぶるりと体が震えた。春なのに、ひとりの部屋はどこか寒い。 旦那が家に一日帰ってこなかったことは前にもあった。 けれどそれが、明日も明後日もずっと続くのだと思ったら、ひどくつまらない。 「タイムマシーンが欲しいねえ」 それかどこでもドア。 二十二世紀の猫型ロボットを思い浮かべながら、佐助は大阪までの距離を思う。 旦那の仏頂面がひどく恋しかった。 次 |