二 羽 の 鴉 に 足 四 つ 片輪唐須。 その著者名が視界の片隅に写り込んで、猿飛佐助はひくりと肩を揺らした。傍らのかすがが訝しげに佐助の視線を追 い、その先にあるものを見て痛々しげに目元を歪める。 わるい、と佐助はかすがの肩をぽんと叩いてへらりと笑った。 書肆の店先で立ち止まる男女ふたりに、店主がへぇなにかお探しですか―――と、人懐こい顔で笑いながら出てきた。 月代から眉までがつるりと出来合いの壺のように曲線をえがいている。佐助は黒塗りの傘をひょいとあげ、顔を出して にこりとこちらも人懐こく笑いかけた。 「いやァ、江戸から出てきたんだけど、矢っ張り上方ってのは品揃えも随分とちがうもんだねえ」 「はァ、あんさん、江戸者かいな」 「まぁね」 「こっちへは、なんぞお仕事でっか」 「いろいろあんのさ世の中にゃね。ねえところで、親爺さんよ。 この先生の本は売れてんのかい」 佐助はひょいと一冊黄表紙を取り上げる。 先ほどの著者の物である。売れてまんなぁ、と店主はうれしそうに答えた。 「ここ一年、一番の売れっ子でっせ。 今は運良く残っとりますが、よう長うは残りまへん」 「へえ、そぉ」 佐助はそれをぱさりと積まれている山に戻す。 なんや買わんのかいな、と店主の顔が歪んだ。佐助はへらりと笑い、また今度ね、と手を振って書肆の前を通り過ぎ る。すこし先で待っていたかすがは、佐助の顔を見ると矢張りすこし目元を歪めた。 「――――――まだ」 見つかっていないのか。 佐助はそれには応えず、かすがの横に並んだ。 真っ黒の傘を傾け、空を仰ぐ。如月の空はふと眩暈を覚えるほどに高く、抜けるように透明に青かった。薄い雲が北 斎の版画のようにくっきりと浮かび上がっていて、どことなく作り物めいている。大坂はどこもかしこも騒々しくて、 土煙とおかしな匂いと、それから人いきれで満ちているのに空だけ冗談のように青い。 ちょうどふたとせ、と佐助は胸のうちでつぶやいた。 片倉小十郎とはっきりと離別してから二度目の如月であった。 壱度目のそれを、佐助はひどく鬱々と過ごした。 佐助が切り捨てた後、小十郎はひととも会わずにただその店の離れに篭もったままだった。そのまま半年近くの日々 が流れ、しかしその後小十郎はきちりと持ち直した。戯作者として新たに人情本も黄表紙も、合巻すら年が明ければ 出版するであろうという。江戸で既に、小十郎は戯作者としての名を確固たるものにしようとしていた。 既に大坂に拠点を移していた佐助はそれを、江戸の同業者から聞いた。 聞いて、佐助はすうとおのれの温度が醒めていくのが解った。 ――――――嗚呼、その程度 そう思った。 なんと醜い心根よと思う。 しかし事実だ。すう、と醒めた。そして安堵した。これでほんとうに、小十郎は佐助から解放され、そして佐助も小 十郎から解放されるのだ。あの夜色の目に捉まることはもうないのだ、と思った。 それでも佐助は月に一度は仲間内からの伝手で小十郎の話を聞き入れ、その度にすこしずつ遠ざかっていく男の背を 瞼の後ろに描き出してはひどく複雑な笑みを浮かべ、そうしてひとつだけ息を吐いた。合巻は弥生に出るという。買 いに行こうかなぁ、とさえ佐助は思っていた。そうすることが可能なくらいには、おのれももうあの男から放たれて いると思ったのだ。 しかしそれは叶わなかった。 佐助は合巻を買いに行かなかった。そもそも合巻は開版することはなかった。 片倉小十郎は、如月の半ばに消えた。 正確に言えばおそらくは連れ去られた――――――のであろう。 小十郎の実家の蝋燭問屋に賊が押し入り、その騒動はさいわいにもこれと言った被害も出ずに御用となったのだが、 店の者が離れへと一応の安否を問いに行ったら、ちいさな草庵には誰も居なかったのである。夥しい書物と、黴臭い 匂い、それから今ひとが居たかのような気配のみを残して、片倉小十郎はふっつりと消えてしまった。そしてもう一 年の間何処へも姿を現していない。 佐助はひどく驚いた。 驚いて、四方八方をあらゆる伝手と人脈を使って探したが、小十郎はまるで元より存在せぬかのように何処からもそ の片鱗すら残さずに消えてしまっていた。消えた。佐助はそう思う。連れ去られたのではなく、あの男は消えたのだ。 賊どもに連れ去られたのだと蝋燭問屋では葬儀もたった。真実こうして、片倉小十郎はこの世から消えたのである。 すこしずつ、時をかけて消えていく筈だった佐助の惑いは其処でかちりと止まってしまった。 「悪い悪い、待っただろ」 かすがに笑いかけると、ぺしりと頭を叩かれた。 「笑いたくもないときに笑うな、貴様のそういう笑顔は気色悪い」 「ひっでぇなあ。地顔だってば」 「戯れ言はもういい。早く行くぞ」 客が待ってる。 女の大きな目が、きらりとひかる。 佐助はにいと口角をあげた。ぐい、と笠を下ろして了解、と言う。笠を下ろすと目元が隠れる。隠れたその目を、佐 助はきつく瞑った。情けない。ざまぁねえや、とこっそりとつぶやく。小十郎が消えて、それと一緒にことりと止ま ってしまった佐助の時間は、動き出さずにずっとその場で止まっている。 あの男の、その名の漢字のうちひとつを見ただけでこんなにも揺れるおのれが、どうしようもなく佐助は煩わしく痛 々しく――――――そして、 かなしい、と思った。 女は湯飲みをふたつ座敷に置いてから、加代でございます、と名乗った。 佐助はおや、と声を漏らした。女の言葉には訛りが全くない。畳に指を揃えてすこし頭を下げていた加代は、すうと それをあげて、生まれは相模、育ちは江戸でございます、と答える。へえ、と佐助は脱いだ笠にあごを乗せて首を傾 げた。座敷の向こう側からはひとの話し声やら行き来する音やらが忙しなく飛び込んできて、盛況なのが知れる。 『おたふく』というのが、この甘味処の名である。 「こんだけの身代、じゃぁ旦那さんひとりでおたてになったの」 店内から奥まった座敷にも、甘ったるい甘味のにおいが充満している。 佐助は眉を解らぬ程度にひそめた。甘いものはあまり得意ではない。加代はちらりと視線を背後に寄越し、おのれの 良人の手捌きを確認してからついと視線を下げて、この店父のものですので、と言った。 「父が一代で造ったそうです」 「へえ。そいつぁご立派」 「ありがとうございます」 加代はにこりと笑い、父もそれを聞けば喜んだだろう思います、と言った。 そうするとひどく華やかな顔になった。贔屓目に見ても特に派手な顔ではないけれども、笑うと愛嬌がある。思わず 佐助もへらりと笑い返した。 ぱしん、と膝を叩かれる。 「貴様は此処に世間話をしにきたのか」 ぎろりと吊り上がった大きな目に睨まれる。 佐助は叩かれた膝をさすってから、かすがにごめんごめんと笑いかけたけれども、既に女はこちらを見ていなかった。 気を取り直して加代のほうへ視線をやる。加代は落ち着いているようだった。細い眼は揺れることめなく、ただ真っ 直ぐに佐助を見据えている。膝の上に置かれた手もそうと置かれたのみで、特に力が入っているというようなことは なかった。笠に隠れた口元を佐助はにいと歪める。 さて、と佐助は正座を崩して胡座をかいた。 「そろそろお聞かせ願いましょうかね。 俺らに頼みてぇ”厄介事”ってやつは、一体どんな面倒なことなのかって辺りを、存分にさ」 佐助がそう言うと、加代の肩がひくりと揺れた。 しろい肌がすうと青くなる。薄い唇がふるふると震えて、それからひどく緩慢な動きで開き、閉じる。佐助とかすが はそれを何も言わずに眺めていた。慣れている。話やすいようなことであれば、佐助たちのような者どもの所になど 来る必要はないのである。 加代は幾度かその動作を繰り返し、それから意を決したように膝をぐいと握りしめ、 「ひとを」 と言った。 ひとを。おとこのひとを。 ――――――わたしのちちを。 「殺してください」 その声は淡々としていた。 覆い被さるように餡蜜を頼む声が座敷に飛び込んでくる。へぇただいま、と加代の夫がそれに応えた。 佐助はしばらく考えてから、残念だけどさ、と首を振る。俺様は暗殺とかそういうのを仕事にしてるわけじゃあない んだよね。 「そんなのは、腕の立つお侍さんにでも頼んだらどうよ。 言っとくけど俺ぁ弱いぜ。腕っ節はそこらの女子どもと変わンない。 大の男を殺すなんざぁ、どう考えても不向きですよ。まあ見りゃあわかるだろうけどさ」 佐助が戯けて首を竦めると、横のかすががやけに深く頷いた。 それにさ。佐助は眉を寄せて、皮肉げに口角をあげた。父親を殺せ、と加代は言う。佐助はぐるりと座敷のなかを見 回した。町人の暮らしとして、恨みを買う程裕福とも思えぬが棟割長屋に比べれば雲泥の差である。一通りの家具は 揃っているし、加代の纏っている小袖も決して粗末なものではない。異臭もしない。如月のきん、と張り詰めたよう なつめたい風がすうと建物を通り抜けていく。 あんたのお父上がこれ造ったんだろう、と佐助は加代に言った。 「あんただってさっき嬉しそうに言ってたじゃないかい。それがまた、どうしたらそんな突飛な依頼になるんだか」 「ちがうんです」 「ちがうって」 ・・・・・・・ 「ちがうんです。その父じゃないんです」 もうひとりのほうなんです――――――と。 加代は詰め寄るような必死さで、身を乗り出してそう主張した。 「もう、ひとり」 佐助はつぶやいて、首を傾げる。 かすがのほうにちらりと視線をやる。黄金色の髪の女は、それに対してひょいと顔を逸らすことで返した。正面へ視 線を戻すと、今度は加代の強い視線にぶち当たってしまった。佐助は息をひとつ吐いて、それから髪をくしゃくしゃ と掻いてからやれやれ、とこぼす。 これは思った以上に――――――”厄介事”のようであった。 次 |