かすがは髪を手拭いでまとめ、箒を抱えてひたりと障子にほおを付けた。 座敷の音がかすかに漏れ聞こえてくる。下卑た笑い声、漏れる酒の芳香、かすがはちらりと眉をひそめ、しかしその まま耳をすませた。座敷、屋敷の離れの主である男は大声で騒ぎ、酒を飲んでいるようだった。相手はそれにすこし 辟易しているように聞こえる。声はちいさく、笑い声もどこか乾いている。 一刻も早ぅ用意いたしますわ――――――と、相手の男が矢張り乾いた声で言う。 「ふぅん」 溜め息のような、相づちのような奇妙な返事を屋敷の主はした。 衣擦れの音がする。かすがはすいと体を障子から離し、庭にひょいと降りた。同時にからりと障子が開き、商人らし き男が姿を現す。腰を低くしてなかに居る相手にへこへこと頭を下げて、かすがのほうへは一瞥も向けずに渡り廊下 を渡って屋敷の本棟に戻っていく。障子は開きっぱなしだった。酒のにおいが濃くなる。 箒を動かしていると、障子の向こう側からぬうと離れの主がのぞいた。 「おい、そこの」 声が耳障りに甲高い。 かすがは跪いて、なんでございましょう、と応えた。 「今まで見たことがない顔だが」 「つい先週、雇っていただいた者でございます」 「訛りがないの」 「生まれは江戸にございます」 「顔を上げてみろ」 言われてかすがはくい、と顔をあげた。 男の目が驚きに丸くなる。顔に多少の塗り物はしてしろい肌が目立たぬようにはしているし、誤魔化しようのない黄 金色の髪は鬘をつけて隠している。しかしそれでも元来の端麗な顔立ちは隠せぬ。 男の顔が好色に歪んだ。 「名は」 「――――――春でございます」 「ふぅん」 男は例の奇妙な返事をして、それからにいと口元を緩める。 それから春な、と意味深に繰り返してまた障子をかたんと閉めた。かすがは顔を思い切り歪めてこっそりと舌打ちを した。慣れてはいるがああいった視線で体中を嘗め回されると、その度に吐き気がする。酒のにおいもすきではない。 離れの男は、元はこの屋敷の主であった。 狭山藩の大目付を代々継いできたこの家の八代目となる筈であった男は、父親の跡を継ぐとすぐに隠居した。そして 離れに移り、あとは言うまでもない。女を呼んで昼間から酒を飲み、それほど裕福でもない家の金をおのれの為に費 やしている。家の者達にとっても、隠居した八代目は悩みの種であるようだった。 「――――――若隠居の道楽、か」 かすがはつぶやき、ふと目を閉じる。 こんなものだろう。珍しい話でもない。ろくでなしはどの時代にも、どの国にも、どの町にでも居る。 ・・ どの若隠居も、ああであるわけがない。 片倉小十郎。 あの男とかすがたちは、六年とすこしの間繋がった。そして切れた。それから小十郎は消えてしまった。それこそほ んとうに煙かなにかのようだったように、影も形もなく消えてしまった。 そしてそうして消えたあの男は、猿飛佐助の一部を抉り取って行った。 おかげで別れて二年も経つのに、かすがの隣の真っ黒い鴉は、未だに夕闇と夜の狭間に囚われてひとりで雁字搦めに なっている。おろかしい。惨めったらしい。そしてあわれだ。かすがは考えるだけであのへらへらした顔を殴りつけ てやりたくなる。佐助はそうやって雁字搦めでひとり突っ立っているくせに、かすがにも他の仲間にもすこしもそれ を見せようとしない。へらへらと笑って、けれども時折ひどく遠くを見ている。見ているだけで腹立たしい。 かすがとて、小十郎が消えたのに何も感じぬわけではない。かなしかった。ひとと別れるのが辛いなどと感じたのは 随分久しかった。 いつだったか、小十郎はかすがのことを――――――それが例え便宜上の由であったとしても――――――、一度、 妹だと呼んだことがある。 離別の瞬間はそれが幾度も耳の奥で繰り返し流れて、膝が崩れそうになった。涙も流れた。誰も居ないならば、声を あげて泣きたかった。夜に紛れてかすがはひとしきり泣いて、そして振り返ったら佐助が居た。 佐助は泣いていなかった。 だからかすがもそれ以上は泣かなかった。 泣けなかったのだ。 佐助は卑怯だ。 平気な顔をして、そして片倉小十郎を独り占めしている。 「――――――馬鹿な男だ」 かすがはぽつりとつぶやいて、箒の柄を固く握った。 かたりと音がしたので、かすがは布団から身を起こした。 横で寝ている女中仲間を起こさないように静かに立ち上がり、障子を開いて縁側へと出る。庭先の背の低い木の傍ら に、真っ黒な影がぼうと立っている。かすがはそれに、おい、と声をかけた。 「音がでかい。もうすこし控えめにしろ」 「こりゃ失敬。こき使われてるようだからかすが熟睡してンじゃねえかと思ってさ」 ちいさな笑い声を立てて、猿飛佐助は黒塗りの笠をひょいと外した。 「どんな感じよ、屋敷の様子は」 「家の者どもは質素倹約、まぁいわゆる武家の人間だ。旗本とは言え狭山藩は富んだ藩でもない。あの男の乱痴気騒 ぎのせいで、随分と家計は火の車らしい。まだ私は新入りだから、そこまで詳しくは報せてはくれないがな」 「ふうん、まぁ予想通りってとこか」 笠をくるりと回して、佐助はつぶやく。 かすがは庭石に腰をかけて、それで、と佐助を見上げた。それで奉行所の記録のほうはどうなっていた。佐助は回し ていた笠を止めて、空を仰ぐ。曇っているので星がない。まったくの闇ではなくて、どことなく濁った黒が広がって いる。 「甘味処の店主と奥方が、賊に押し入られ撲殺。奥方のほうは乱暴されていた。被害は店の売り上げ少々。隠してお いた財産のほうには手はつけられていない」 佐助は一口にそう口上する。 かすがはすこし黙ってから、それだけか、と問うた。 それだけさ、と佐助は首を竦める。 「加代さんの言ってた通り、ってことだ」 「揉み消しか」 「そこまでも行ってないだろうね。たぶんこりゃあ、随分上手に誤魔化したんだろうよ。 証拠が無い。きれいさっぱり。 どこぞの不貞者の仕業にするしか、奉行所のお偉いさんたちも出来なかったんだろうさ」 加代の両親は、今年の始めにふたりとも殺された。 昨年の秋に祝言をあげていた加代と夫は、夫の実家がある播磨のほうへ正月の挨拶へと赴いていた。そこから帰って きたのはまだ松も取れていない時期であったと言う。もうすこしゆっくりすればいいのにと加代は言ったのだが、夫 はまだ修行中の身であったので早く帰って店に入りたいと聞かなかったのだ。 そうして予定よりも早く帰ってきたふたりを出迎えたのは、何故か閉まったままの店の戸のすぐ近くで倒れていた父 と、奥の間で着物を乱されて矢張り倒れていた母だった。 血の匂いはしませんでした―――――と、加代は言った。 「随分長い間があったのでしょう。 もうすっかり乾いちまってて、匂いもしませんでした。 それに、私が母に抱きついても着物の血は移ってきませんでしたから」 奉行所に届けたが、賊の仕業であろうということにしかならなかった。 加代はひどく泣いたが、泣いたところで両親が戻ってくるわけでもなし、大黒柱を失った店を傾けてしまえばそれこ そ母にも父にも申し訳がたたない。夫とふたりで盛り立てていこうと心機一転、喪中ではあったが店を始めようと母 の座敷の整理をしていたときであった。 「母の日記が」 箪笥の奥に、隠すように。 あったのだと言う。 加代はそれを手にとって、それからすこし迷ってから開いた。それは四冊あった。いっとう古いものは加代が産まれ たばかりの頃のものであった。母のやわらかな蹟を見るだけで加代は満たされた。 まるでそこには母が居るようであった。 そのうちに加代はふとあることに気づいたのだ、と言う。 「無いんです」 父の名が。 父の名前が、日記の何処にも無い。 最初の日記には、相模での生活が綴られていた。おさない加代のこと。母親のこと。細々とした生活のこと。そこに は何処にも父の影はなく、しかし加代はそれを不思議には思わなかった。何故かと言えば、確かにおさない頃加代に は父が居なかった。母に父のことを聞くと必ず、 「父上はね、もうすぐ迎えに来てくださるから」 と言い聞かされた記憶がある。 結局は十三のときに母と加代のほうが父の待つ大坂へと赴くことになった。だから加代が初めて父と会ったのは十三 のときである。不思議に思うべきだったのかもしれません、と加代は言った。だって父は根っからの大坂育ちで、 じゃあどうして母と出会ったのだろう、って。 「でも私、父と母と三人で、とてもしあわせだったんです。 父はやさしくて、たのしくて、母も父をとても愛していました。父もです」 そのやさしい父の名前は、二冊目の日記を繰っても出てこなかった。 代わりに別の男の名が出てくることになった。丁度加代が母に連れられて江戸に移り住んだ頃だった。母はその男と ひどく親しいようだった。加代は確かにその頃、母が時折きれいな着物を着て何処かへ出かけていく姿を幾度も見た。 それはどうやら、この男と会う為のようであった。 男は、武士だった。 母は恐らくその男に囲われていたのだろう、と加代は日記を読みながら思った。 そして恐らく。 「私は、その男の子供なんです」 男は参勤交代で江戸に来ている、狭山藩の旗本なのだと日記には書いてある。 狭山藩は大坂である。つまり加代と母が大坂に行ったのは父に会うためではなく、その男に連れられて―――――な のであろう。そして大坂まで連れてきたはいいが、男は母に飽いて、そして捨てたのだ。路頭に迷ったところで母は 父と出会い、そして加代を騙したのだろう。それはやさしさであったのかもしれないし、女の矜持であったのやもし れぬ。どちらにせよ、母が死んだ今になってはわからぬことだ。 四冊目の日記は、父と母と加代の、しあわせな日々が綴られていた。 それを読みながら加代は、それでもいい、と思った。三冊の日記に書かれていることが心に堪えなかったかと問われ れば応と返せば嘘になろう。けれども、加代はたしかにしあわせだった。母もそうだった。父もそうだったのだろう。 ならばそれでいいではないか。 三冊の日記のことは、すべて読んだら忘れてしまおう。 そう思って、加代は最後の一枚をはらりと繰った。 「ぞっとしました」 そこには。 あったのだ、と言う。 「あの男の名前が」 母を弄んで捨てた、あの男の名前が。 偶然町で出会った、と日記には書いてあった。そして声をかけられた。どうしているのかと問われ、今はお蔭様でし あわせに甘味処など開いて細々と生活しておりますと母は答えた。男はそれはいい、と笑い、それからでは明日にで もお邪魔しよう積もる話もある、と言った。母はそれを記してから、明日は貸切にして最高の持て成しをしてやろう と最後を結んでいた。 そこで日記は終わっていた。 「明日というのが、父と母が死んだ日です」 奉行所にもその日記は見せたのだ、と加代は言った。 ただ取り合ってもらえなかった。町奉行の若い男は熱心にそれを読んでくれたと言うが、それだけで直ぐに旗本を捕 らえるわけにもいかないのだ、と説かれた。確かにこれでは証拠にはならぬだろう。会ったかもしれぬが、そこで男 が加代の両親を殺したかどうかはまた別の問題である。 「殺したんだろうけどね」 佐助は笠を再びかぶって息を吐いた。 つめたい夜の空気のなかで、それはしろい靄を象る。そして直ぐに消える。 「どうして判る」 「だッてさっき泥酔してるあのおっさんに、加代さんのお袋さんの名前つぶやいてやったら驚いて跳ね上がってたぜ。 ざまぁないったら」 佐助は皮肉げに口角をあげる。 罪の意識はあるのだな、とかすがはつぶやいた。平気な顔をしておのれのことも口説いているところを見ると、余程の 極悪人かとも思ったがただの小心者のようである。 極悪人なんざそうそう居ねえよ、と佐助は笑う。 「大体の人間はみんなくだらなくッて、なんか仕出かすときだって大した理由はないんだよ。 ここの馬鹿も、大方昔の好で一度くらい致せないかと思ったところ、思いのほか抵抗されてついでに旦那も帰って きて、物の弾みで殺っちまったんだろうさ。そんなもんだ。馬琴の話みてえに、因果応報とはいかないよ」 「―――くだらん」 「くだらないさ、人の世なんてな」 佐助は歌うように言って、ひょいと塀に登った。 「上手くは流れない。 しあわせだからってそれが続くわけじゃあないし、なにも後ろ暗くなくたって理不尽にそれを奪われることだって いくらでもありましょうよ。大事に守ったからって、それがいつまでも横に在るなんて思ったらさ。 こんな世の中とてもじゃあないけど――――生きちゃいけねえよ」 「それは」 「うん」 「貴様の話か」 風が吹いた。 薄手の羽織物しか纏っていないかすがの肩がふるりと震える。肩を抱くようにして、かすがは塀に登った黒い男を見 上げた。佐助はぱちぱちと目を瞬かせてから、へらりと困ったように笑って、なんのことだかおれにはさっぱり、と 首をすくめる。 かすがは舌打ちをして、足元にあった石を佐助に投げつけた。 「ととっ、なにすんだよっ」 「煩いッ。とっとと帰って仕掛けの絵でも捏ね繰り回していろッ」 「解った、解ったから石は止してくれってばッ」 石を投げるのを止めると、佐助は安堵したように息を吐いた。 それからじゃあな、と言って塀から飛び降りる。かすがはそれを見届けて、くるりと踵を返そうとしたら塀の向こう からまた佐助の顔が覗いた。一体今度は何だと眉を寄せると頭だけ出した佐助はへらりと笑い、 「黒髪も似合ってるぜ、お春さん」 と言い捨ててまた消えた。 かすがは目を丸めて、それから石をまた投げたが既に佐助は居なかったのでそれはそのまま闇に吸い込まれていった。 次 |