佐助は一瞬言葉を失って、それから目を閉じた。 加代は頭を下げている。深く下げている。うどん屋の店内で、他の客がじろじろとふたりを眺めていた。佐助はぽんぽ ん、と細い女の肩を叩いてまあ顔をあげてくださいな、とつぶやいた。加代の顔があがる。褐色の顔が青くなるとなん だか死人のようだった。 「申し訳ありません」 「いや―――、いいんだけどさ」 佐助は髪を掻いて首を傾げる。 「でも、ちょっとお聞かせくださいますかね。 なんだって急に、依頼取り下げなんてことになったんだい」 「お代はお支払い致します」 「いらねえって。理由、言えないならそれはそれでいいけどさ」 佐助は息を吐いて運ばれてきたうどんに箸をつけた。 加代もそれに倣おうとしたらしいけれども、箸を持つ手が震えてかたりと落ちた。佐助は笑って加代の髪に手を置いた。 「べつにいいってば。気が済んだならそれに越したことはねえんだしさ」 怒らないよ、と言う。 加代の顔がすいとあがった。目に涙が浮かんでいる。安堵からのようだった。随分恐がれてたんだなぁ、と佐助は苦く 笑う。じゃあ奢りで食わせてもらうからそれでチャラね、と佐助は笑い、うどんを箸で持ち上げようとした。そこを、 止められる。 急に腕が強く握り上げられた。 「――――ッ」 「女泣かすってなァ、あんまり感心はしねェなあ、坊さんよ」 若い声が楽しそうに言う。 ぎり、と骨が軋む音がする。佐助は眉を寄せた。加代が慌てて立ち上がり、ちがうんです、と声をあげた。男はへ、と ほうけた声を出して首を傾げている。佐助はそれで緩んだ腕からすいと抜け出した。 「Ah、sorry,勘違いだ」 男は両手を挙げてそう笑った。 佐助は痛む腕をさすりながら、恨めしげに男を見上げる。男は龍の文様が付いた派手な着流しを纏って、懐手をして煙 管を咥えていた。右眼に眼帯がついている。黒髪が真っ直ぐに目の辺りを覆っているが、それでもその目の鋭さは容易 に知れた。佐助は眉を寄せる。急に腕を捻られたということを置いておいても、あまりすきな顔ではない。 男は笑いながら、あんたが虐められてるのかと思ってな、と加代に声をかける。 「向こうから見たら、えらい青い顔してたもんでよ。違ったなら悪かったな」 「いえそんな――――御奉行様にお気を使って頂けるなんて、勿体ない話でございます」 「御奉行」 佐助は思わずつぶやいた。 男が楽しそうに、迷惑掛けた詫びに自己紹介と行こうか、と言う。 「俺ァ伊達政宗。大坂町奉行をしてる」 「――――どう見ても盛り場の渡世人にしか見えねえけどね」 「Ah-han,良く言われるぜ」 男はひどく可笑しそうに笑った。 それから細められていた目がすいと開かれて、こっちが名乗ったんだ、そっちも名乗るのがRuleだろ、と言う。時折な にを言っているのか解らぬ言葉が交じる。異国語だろうか、と佐助は思いながら笠を脱いだ。町奉行の前に姿を現せる ような身分ではないが、こうなれば仕様がない。政宗のほうへ体を曲げて、ひょいと頭を下げる。 「小汚い乞食坊主でございますよ。 お役人に名乗る名前は持ち合わせちゃおりません」 「――――おまえ」 「は」 「その髪」 ぐい、と髪を引っ張られた。 頭に走る痛みに佐助は思わず目を閉じる。政宗は佐助の髪を握りしめて、しばらくの間それをじいと凝視していたが― ―――そのうちに高い声で笑い声を立てた。 「成る程な、それでか」 髪が放される。 佐助はすいと体を退いた。政宗はまだ体を震わせて笑っている。その不気味さに佐助は不愉快げに顔を歪めた。非人だ と罵倒され、馬鹿にされることも卑下されることも慣れてはいるがこんなふうに意味の解らない扱いを受けたのは初め てだった。佐助は正体の知れぬものがいっとうきらいである。 伊達政宗という男は、佐助に一種嫌悪感すら抱かせた。 「こいつァ愉快だ。So interesting!」 一頻り笑ってから政宗は机にどん、とてのひらを置いた。 それがすいと持ち上げられる。そこには一枚の瓦版が残った。 佐助はそれを手にとって眺める。それは浄瑠璃の品目の案内であった。政宗はやるよ、佐助に言う。見に来ればいい、 それをな。 「そうすりゃァ、なんで加代がおまえの依頼を切ったのかも解る」 「へえ。御奉行様が関係なさってるってわけですね」 「さあな。俺は所詮、表の人間だ」 政宗はそう笑い、佐助の襟を掴み上げる。 それからにい、と唇だけ下弦に歪めた。目のほうはそれとは打って変わって、ひどくつめたい。 政宗の口がゆるゆると開いた。 「八咫烏」 そしてそう言う。 佐助はひやりと背筋が寒くなるのを感じたが、おなじように笑い返してやった。 「なンでまた、あんたがその名前を」 「よく知ってるぜ。よォく、な」 「そりゃ光栄だ」 「臆病者の三本足の阿呆鴉」 政宗はつめたい声で口上してから、思い切り佐助を壁に叩きつけた。 他の客は幸い居なかったが、壁と一緒に近くの椅子にも足が当たってそこも痛んだ。背中は強く壁に叩きつけられて、 喉の奥で肺が萎縮するのが不思議と知れた。空気が逆流して口から不格好にあふれ出て、咳になる。政宗はそれをひど く詰まらないものでも見るように見下ろして、それからふと飽きたとでも言うように店の暖簾を潜って出て行った。 加代が駆け寄って、佐助の背を撫でる。 「大丈夫ですか」 「あぁ、あんまり大丈夫じゃないけど――――さっきの」 あんたの知り合いなの。 そう問うと、加代はすこし迷ってから頷いた。脅されてでもいるンじゃないの、とまた問うと首が振られる。ちがいま す、と言う。あのひとはほんとは良い御方なんです。佐助はまだ整わぬ荒い息を吐きながら、ちいさく笑い声を立てた。 良い御方。とてもそうは見えぬ。 加代は佐助の背を撫でながら、でも、と首を傾げた。 「どうして政宗様は、あなたのお名前を知っていたのでしょうか」 「そんなの」 佐助ははん、と鼻を鳴らしす。 そんなことは佐助のほうが教えて欲しかった。 貴様馬鹿か、とかすがは吐き捨てた。 佐助はひらひらと瓦版を揺らしながら首を竦める。 「仕様がねえでしょ。あっちがいいっつってんだから、俺がどうこうできることじゃねえもの」 「それでのこのこお上の言うことを聞いて戻ってきたということか、この痴れ者」 「あぁもう、はいはい。解りましたよ。俺様が悪ぅござんした。 だからおまえもあの家は辞めちまっていいよ。次の仕掛けも詰まってるし、これが終わったら鬼の旦那との仕掛けに おまえには加わって欲しいンだけど―――――」 「いやだ」 佐助の言葉を、かすがの声が遮る。 根城にしている汚い棟割長屋の一室で、割れた茶碗に白湯を注いでいた佐助は目を幾度か瞬かせた。筵に座っているか すがは、視線を佐助から逸らしながらまたつぶやいた。いやだ。 佐助は困ったように髪を掻く。 「あのさぁ、俺らの仕事はそういう仕事じゃあねえでしょ」 「―――半端で仕事を放るなど、私はしたくない」 「そりゃおまえの自己満足であって、俺には関係ないね。 仕掛けを仕切るのは俺だぜ。今さらおまえにこんなこと説明しなきゃなんねえとは思いませんでしたがね。そいつぁ 解ってておまえも俺に付いてきてるんだと思ってたけどな」 戯けるように、それでも畳みかけるようにそう言う。 かすがはすこし言葉に詰まり、それから付いていってなど居ないと吐き捨てた。佐助はちらりと笑みを口の端に乗せて、 声の調子をすこし落としてまだ残りたいの、と問う。かすがは黙り込んでいたが、そのうちにひとつちいさく頷いた。 「ひとを、殺すなど」 「うん」 「―――生半可な覚悟で言えることじゃあ、ない」 「うん」 「加代さんが、急にそれを翻すなんて」 「そうだね」 佐助はぽんとかすがの頭に手を置いた。 佐助にしてみても、急な加代の態度の変化は気になるところである。第一、あの伊達政宗という町奉行のことも気にな る。加代のような民衆と、奉行が知り合うことなど普通に暮らしていれば有り得ない。しかし政宗はあきらかに事情を 熟知しているようであったし、そもそもあの男は佐助ことも知っていた。なにゆえであろうか。 表に出るような、下手な仕掛けを打った覚えはない。 「俺も気になることはまぁ、多いよ」 瓦版の皺をぱん、と伸ばす。 大坂の町に起こりたる奇怪事三本立―――――というのが謡い文句であった。 これが何か関連しているのだろう、と佐助は思う。第一、まだ時は弥生である。怪談物をこの季節に演るのはあきらか に可笑しい。この浄瑠璃と町奉行、そして加代が一体どういった線で繋がれているかはまだ皆目見当もつかぬが、知ら ぬままに過ごすつもりは佐助にもなかった。 縄張り意識ではないが、急におのれの仕事に横やりを入れられた苛立ちは佐助にもある。 「この浄瑠璃はあと五日後。とりあえずこれにはそうだなァ。毛利の旦那にでも行ってもらうとして―――――」 「おい」 「え」 「貴様が行けばいいだろう」 佐助は眉を寄せた。 かすがが不思議そうに首を傾げる。 「どうした」 「俺はさっき言った鬼の旦那との仕掛けがあるンだよ。そっちも決行は卯月の半ばだからそうそう呑気にもしてらんね えだろ。毛利の旦那は手ぇ今空いてるから丁度良い」 「ちがうな」 かすがは目を細めて言い放つ。 佐助は息を吐いた。付き合いが長くなると舌先で丸め込むことがどうにもしにくい。しかも相手がかすがならば尚更で あった。かすがは佐助の手の中から瓦版を取り払って、ぱん、と汚い板間に叩きつけ、そして細い指である一点を示した。 「これが、嫌なんだろう」 片輪唐須。 浄瑠璃の脚本家の名である。 佐助は黙ってただその字を凝視した。解らないとは言わん、とかすがは痛々しい声で言った。おまえがどういう感情を あの男に抱いていたか、私は知っているからいやなきもちが解らないとは言わない。 佐助はくつりと笑った。 「知っている」 そいつぁ面白いな、と言う。 「俺にだって判ってなかったのに、へえ、凄いな。 かすがは俺があのおひとをどう思っていたか知ってるって言うわけだ」 「猿飛」 「滑稽だって言うんだろ。解ってるよ。 餓鬼かよ、って話だよな。同姓同名ならまだしも一文字しか一緒じゃあないってぇのに一々女々しく反応してる俺が いけねえんだよ。でもな、勘弁してくれませんかね」 俺がいっとう、そんな俺がいやなんだ。 くしゃりと瓦版を握りしめる。かすがは黙ってしまった。佐助はうんざりした。かすがに当たったところでどうにもな らぬ。ごめん、とちいさく言うとかすがの細い首が振られた。 佐助はへらりと笑う。 「俺が行くよ」 瓦版を握りしめる。 いいのか、とかすがが問う。いいよ、と佐助は答えた。どうにも動かなくなってしまったおのれの時を、今さら動かし たいとは思わない。きっとおのれの一部はあの夜に死んでしまって、死んでしまったものはもう二度と蘇らないのだ。 それでも生きると決めたなら、その為には努めなければいけない。 「さっと行って、まぁ彼方様のお手並み拝見してきてやりますよ」 五日はすぐに経った。 劇場はひどい混雑をしていた。 今売り出し中の評判の戯作者が脚本ともなればこうなるのだろう。元は江戸者の佐助にしてみれば、夏でもないのに怪 談など野暮で仕様がないような気もするけれども、上方はまた感覚が異なるのかもしれない。二段に分けられた会場の、 上段に昇って舞台を見下ろす。 大坂にて起きたる奇怪事。 「さてさて」 何を見せてくれるのやら。 佐助は笠を脱いで、暗い劇場の一角で舞台の幕がするすると上がっていくのを目を細めて眺めた。 次 |