「Ah−han、死ななかったのか」 にい、と口角をあげて政宗は言う。 報告をした部下は怪訝な顔をして政宗を見上げた。気にするな、と部下に告げて、政宗はひょいと首を傾げて横の席に 坐る男に目をやる。ここまで計算済みか、と問う。男は無言で肩を竦めた。 政宗はすこし眉を寄せてから、部下に視線を落とす。 「それで、その男は今どうしてンだ」 「錯乱している様子でしたので、幾人かで抑えて劇場の外に出しましたが」 「OK,そのままそいつを逃がすンじゃねェぞ」 ぱちりと手元の扇子を閉じる。 まだざわついている観衆のなかをすり抜けて、政宗は出口へと向かう。横に坐っていた男は後ろに付いている。外に出 ると、数人の部下に抑えつけられてそれでもなお手足を激しく動かしながらなにやら意味の通らぬことを叫いている男 が視界に入り込んでくる。政宗は顎で指し示し、その男を狭い路地に押し込んだ。 目を見開いている男に、跪いた政宗は口先だけで笑ってやる。 「どうした、狭山藩の大目付とも思えねェ無様なFaceだぜ」 「あ、あぁ――――か」 かよが、と男は言う。 政宗は喉の奥で笑った。 「おいおい、話すなら俺にも解るLanguageで頼むぜ。一応あんたも、人間だろうが」 ぐい、と顎を掴む。 男は呻いた。顎の骨がきしきしと軋む音を聞きながら、政宗は右の拳をあげて、それからおもむろに男のほおに打ち込 む。骨がぎしりと折れる音がした。血と歯が飛んで、遅れて男の体がどさりと道に倒れ込む。 政宗は手を壁に擦り付けてから、部下に連れて行けと命じた。意識を失ったらしい男がずるずると引きずられていくの に一瞥も与えずに、政宗は残った部下を手で招く。 「劇場のなかで二三人、あの男の傍に居た客を奉行所に連れてこい。目撃情報を聞きてェ」 「承知致しました」 「それから」 ひょいと政宗は顔をあげた。 部下の後ろに居る男に視線を合わせたまま、言葉を続ける。 「赤毛の、黒尽くめの男は、確実に連れてこい」 部下は頭をふたたび下げて承知致しました、と言う。 部下が劇場に戻る。政宗はそれを目で追って、それから腕を組んでおなじく部下を見送っていた男に視線を寄せ、閉じ た扇子で首をとんとんと叩きながら、どうだい、と問いかけた。 「Parfect、だろ」 十分すぎる程です、と男は返す。 政宗はくつくつと笑い、たのしみだな、と男の肩を叩く。拳ひとつ高いところにある男の顔を見上げて、幕はあげたぜ 俺はあとは高見の見物だ、と言う。男は頷く。政宗はまた笑った。そして言う。 とくと拝見させてもらうぜ。 「片輪唐須。おまえの舞台だ。好きにやれ」 男の首元に指をついと這わす。 片輪唐須と呼ばれた男は、目を伏せて政宗の指を左手で掴んでからにいと口角をあげ、 「御意のままに」 と応えた。 今何て言った、とかすがは高い声をあげた。 佐助は肩を竦め、みたいだよ、と答える。まだ辺りはざわついている。劇場から溢れるように出てきた人々で道は埋ま って、歩くこともままならない。出口で待っていたかすがは、唐突なひとの流れに飲まれぬように佐助を待っていたけ れども、そこで告げられた事実に絶句する。 佐助は困ったように笠を深く被って息を吐いた。 「なんだか、なあ。俺もはっきりと判ってるわけじゃねぇンだけど」 佐助が坐っていたのは、劇場の上段いっとう右だった。 騒ぎが起こったのは上段真ん中でであった。三本立ての芝居のうち、三つめの芝居の中程まで終わった頃であっただろ うか―――――――正確なところは解らない。ざわめきが波のように拡がり、佐助の坐っている場所まで到達するのに それほどの時はかからなかった。 聞くに堪えぬ不快な声が劇場一杯に響いた。 次いで、辺りの客の叫び声がそれに続き、更に下段の観衆にもそれが伝染する。佐助は席を立ち、身を乗り出して騒ぎ の中心へと視線をやった。男がひとり、激しく叫びながら暴れている。周りの客はそれを必死で抑えているようだった。 佐助は男の顔を見て、目を見開く。ひどく動揺しているようで、瞳孔は開き顔は真っ赤に染まり、汗が滝のように出て 口の端からは泡が吹いて、とてもではないが目も当てられぬ程に面相は変容していたが、 「―――――――おいおい、冗談きっついって」 佐助は苦く呟く。 それは確かに、加代の父である男だった。 佐助はひとの波をかき分け、男の傍に寄る。 近寄るにつれて、叫いている言葉が明瞭になっていく。かよが、と男は言っているようだった。それから女の名。それ は加代の母の名であった。ゆるしてくれ、と男は叫ぶ。 ゆるしてくれ、ゆるしてくれそんなつもりではなかった。 「お願いだ、お願いだから、なんでもしようだから、だから、俺の傍から離れろッ」 「落ち着け、意味がわからねぇよっ」 「触るな触るな、近寄るなァアッ」 他の客の言葉もむなしく、男はただ暴れ続ける。 そのうちに、幾人かの岡っ引きが到着し、男を抑えつけて劇場の外へと連れ出した。それを眺めながら、おや、と佐助 は思った。まだ騒ぎが起こってから数える程の時も経っていない。岡場所はここから離れている。おや、こりゃいった いどうしたことだ。 けれども、それに思いを馳せる前に誰かが佐助の肩を掴んで強引に振り返らせた。 見ると、先ほどの岡っ引きのひとりである。 「おやおや、怖い顔をしてどうなすったンですか」 「おまえは此処の客か」 「そらぁね。劇場へは芝居見に来る客か、そうでなけりゃ役者しか居りませんぜ」 佐助は戯けて肩を竦める。 岡っ引きは構わずに言葉を続けた。 「後で奉行所に来い。様子を聞かせてもらう」 「はあまあ、お上のお達しとあれば聞かないわけにもいきませんが」 佐助は眉を寄せる。 「俺ぁ、いっとう右端に居ましたンで、事の次第はそんなに詳しく話せやしませんよ」 「どうでもいい」 「は」 「どうでもいい、兎に角おまえは来るんだ」 高圧的に言い捨てて、岡っ引きは踵を返した。 出口へと向かうその背を見ながら、佐助は口元へとてのひらをやった。どうでもいい。どうでもいい、と岡っ引きは言 った。つまりそれは、佐助が事件の瞬間に何処に居ようとも、どうでもいい、ということだろう。要するに佐助が呼ば れたのは、事件の様子を話す為ではなく、ただ佐助という存在そのものの為に呼ばれた、ということになる。 奉行所、という言葉は自然とすこし前に見えた伊達政宗という奉行を思い出させた。 佐助はてのひらで覆われた口をにいと無理矢理笑みの形に歪める。 周りには聞こえぬ程度の声音で、こいつぁいいや、とつぶやいた。あきらかに挑発されている。それに乗らぬのは、負 けを認めたことになるだろう。勝ち負けの世界ではないけれども、 「招かれているらしいからね、ちょっくらそのお招きに乗ってきますよ」 へらりとかすがに笑いかける。 かすがは眉を寄せたまま、いいのか、と問う。 「明らかな罠だろう」 「さあな。俺を罠にかけてもあちらさんが得するとも思えねえけど」 「だからと言って、奉行所に行って埃も出ぬ程きれいな体をしているのか」 「おやおや、こいつぁ聞き捨てならないな。俺様はいつだって明鏡止水の輝きだよ」 「―――――――貴様」 「おおっと」 青筋を浮かべたかすがに、佐助は慌てて手を振って笑う。 「まあ冗談は置いておくとしても、俺は行くよ」 そう言って、黄金色の髪をぽんと叩く。 顔をあげたかすがに、にいと思い切り笑いかける。大きな目がかすかに揺れるので、ぽんぽんと頭を叩きながら佐助は 大丈夫だよ、と静かに言った。 だいじょうぶ、おれはしなないから。 「待っててくれるだろ、かすが」 覗き込むように問うと、軽くほおを叩かれた。 叩かれたほおを抑えながら佐助は笑って、一歩足を後ろへと踏み出す。踵を返して奉行所へと歩き出そうとすると、後 ろから声がかかった。貴様など待つものか、とかすがが言っている。佐助は口角をあげて、それから手をひょいとあげ て振り返らぬままに、了解、と答える。 「待たなくてもいいや。俺が勝手におまえんとこ戻っから」 手を振って、そのまま歩き出す。 戻ってくるな馬鹿が、と声が背中に投げつけられた。佐助はけらけらと笑って、小走りでかすがの視界から消える。 佐助は歩きながら、すこし考える。さておのれは死ぬだろうか。あの奉行が仕組んだと思われるこの茶番劇のなかで、 果たしておのれに与えられた役目の結末は何なのだろう。どちらにしても、と佐助は思う。どちらにしても、佐助は死 ぬつもりはない。脳裏に黄金がひらりと舞う。 あの女が居る限り、佐助は死ぬわけにはいかない。 かすがは親を亡くして、親代わりの男も亡くして、あらゆるものを亡くして今佐助の後ろに立ち尽くしている。 死ぬわけにはいかんよねえ、とつぶやいてすこしだけ笑った。 ほんとうならば、かすがが居なければもっと前に佐助は死んでいたかも知れない。 命を絶とうと思ったことはないけれども、どうして此処でおのれは息をしているのだろうと思ったことは幾度もある。 その度に黄金色の女が佐助を引き戻した。最初に会ったときは人形のようであったかすがは、生に執着することができ ぬ佐助の、この世のたったひとつの楔だった。 ああちがうな、と佐助はこっそりと笑う。 「もう一個」 空を仰ぐ。 曇った空は、全てを覆い尽くして先があるとも思えぬ程に厚い。 待っているのだ、と佐助は思う。佐助は、待っている。もうずっとそれを待ち焦がれている。 声が聞こえた。 瞼をゆるゆると降ろす。 声が耳の奥で反響して、幾度か繰り返される。 「まるで狂言だ」 佐助ははっきりと、おのれの耳の奥の響きを押し込めるように口に出してその言葉を綴った。阿呆だ。馬鹿だ。どうし ようもねえ道化者だ。立ち尽くしてなにかをつぶやく佐助を、忙しい町の人々はそれでも気にもせず擦れ違っていく。 ああ、と佐助は笑いながら呻き声をもらした。 ああ、気が狂いそうだ。 ―――――――地獄の果てまででも追いかけて、その腑抜け面ぶん殴ってやる いっそ呪いのようだった。 佐助を縛って放さぬ呪詛のようだった。 それは笑ってしまう程に有り得ぬ泣きたくなるほどにきれいな絵空事で、佐助はそれでもその言葉に縋り付いている。 もう何処にも居ないあの男が、いつかおのれを殴りに来る日を待っている。佐助は、確信するように明日を思う。明日 とそして、それからおのれが死ぬまでを思う。 そうして、その度に絶望するように知るのだ。 きっとおのれは、その日を永劫にでも待つだろう。 次 |