一体全体、そもそもの始まりとして、おのれはあの男をどういう風に見ていたのだろう。 佐助はぼんやりとそんなことを思った。 小十郎と出会ったのはもう十年は前になる。共に居たのは六年かそこら。決して短くはないけれども、長いという程の 時でもない。いくつか仕掛けに関わらせた。それも両の手をすこし余る程度の数でしかない。小十郎は表の世の人間に しては役に立った。無論その枠を出ることはない。佐助の稼業にとって必要不可欠な人間とは言った端から歯が浮こう。 精々がそんなものだと佐助は思った。 決して小十郎は特別な男ではない。 佐助たちとは絶望的なまでにちがう毛色の男である。育ちが良い。働かなくとも不自由をせぬほどの金がある。浮き世 の醜さからひどく離れた場所に居る。聞いただけで虫酸が走るような甘い言葉を平気で舌に乗せようとする。小十郎は そういう言葉を口には出さぬ。おのれでも、なんという甘さよと自覚はしているのだろう。 代わりに男の口より余程雄弁な目がそれを語る。 切れ長の黒い目は、日の下では不釣り合いな程深く黒い。 最初はそれが愉快でしかたなかった。きれいな男だ。佐助とは全く正反対の男だ。そういう男がおのれの一挙一動でく るくると表情を変えるのがたのしくない筈がない。仕掛けにとっても都合が良く、それでいて共に居ても退屈をしない。 表の世の人間を巻き込むことはあまり得策ではないけれども、深い場所まで引き入れるつもりは毛頭ない。佐助にとっ て小十郎との遣り取りは、いつかは終わることの決まっている遊戯のようなものだった。 きれいな男だ。 そういうものに触れていると、おのれもそれに浸食されていくような心地がした。 小十郎と話しているとひどく落ち着いた。森のように深い声が言葉を綴ると、それは管楽のように佐助の耳を震わせた。 小十郎がたのしげにおのれの趣向の話をするのを聞いているのが、佐助にとっては他のなによりのたのしみになった。 りいん、と鈴を鳴らせば障子を開く。弾かれたようなその仕草がくすぐったく、客として扱われれば居たたまれなかっ たけれども、単純に小十郎の気遣いはぬるまったかった。 共に旅をして、仕掛けをこなして、語り合えば空気のように自然と小十郎がおのれを想っているのが知れた。小十郎は 佐助の内奥の、奥の奥、いっとう奥にあるなにかしらのかなしみの芯のようなものに触れたいと切望している。 物書きの好奇心か、友好の末の感情か、いずれにせよ佐助はそれにひどく驚いた。小十郎のような男が、佐助とは天と 地ほども掛け離れたような場所に居る男が、佐助に手を伸ばしている。体が歓喜でふるえるようだった。小十郎が、と 思った。この手を取れば、小十郎が佐助のものになる。 知った瞬間、その手を取ろうと思い、それからすぐに止めた。 しろは、浸食するのではなく、される色である。 浸食するのならば、それは小十郎ではない。佐助だ。 佐助が小十郎の手を取れば、二度と日の当たる場所に小十郎は戻らない。 佐助は苦労を知らぬ小十郎がすきだった。物書きの滑らかな手をした小十郎がすきだった。そういうものに対して、お のれの責でもないのにちいさな不満のようなものを持っている小十郎のことが、とてもとてもすきだったのだ。 それは例えるのならば、決して触れることのできぬ反物を見ている物乞いの娘のような心地だったかもしれない。ひど く欲しいが、おのれの手のなかに入れてしまえば、それはもういろを変えて他のものになる。小十郎が他のなにかにな ってしまうのが佐助には耐えられなかった。 それをすら望みそうなおのれがいっとう耐えられなかった。 離れようとした。 幾度も幾度も試みた。 一向に気付かぬ小十郎が憎らしいとすら思った。 それでもあの男の元に通うおのれの足を止める術を佐助は何処にも持ち合わせてはおらず、会えば厭わしいとすら思う のに姿を求めずにはいられない。まるでなにかの病のようだとうんざりと思った。小十郎は佐助の変貌に戸惑って、そ れから諦めたようだった。小十郎は、ひどく強い。佐助のように臆病ではない。甘ったるく、きれいで、強く、そして 息が止まる程にただただ佐助のことを見ている。 そのうちに、佐助は小十郎が心底から厭わしくなった。 小十郎はおそらくは―――――――おそらくは、きれい過ぎたのだ。 しろがしろである程に、対比で黒はそのいろを濃くする。共にいるとおのれの薄汚さが益々際だつようで苛立った。そ のいろを一向に変えることもせずに佐助に近づいてくる小十郎に、理不尽な怒りが湧いた。あんたはそんなにきれいな ままで、俺に近付いてそれで一体どうするってんだよ。 「汚れる覚悟もねえくせに、俺に近寄ンのはやめてくれませんかね」 猿飛佐助として最後に交わした会話を、佐助は今でも覚えている。 小十郎はなにも悪くない。厭わしいと思う癖に、傍に寄らせる佐助が悪いのだ。 急に怒りをぶつけられて、小十郎は戸惑ったようだった。黙り込んで、眉を寄せる。佐助は下腹から込み上げてくるよ うなひどい苛立ちを、胸の上を抑えて必死で堪えた。ともすれば襟を掴んでやりたい衝動にかられる。どれだけ汚い言 葉を投げつけてもそれを受け止める小十郎に、おのれのものではないような異様な熱に佐助は囚われた。 すいと視線があがる。夜を切り取った切れ長の目が、佐助の顔を真っ直ぐに覗き込む。 「なら」 「なら、なんだい」 「なら、俺がおまえが望むだけ汚れたら」 俺が寄っても、おまえは逃げねェのか。 泣き出す童みてェな、その顔を止すのか。 「そうなのか、猿飛」 佐助はひう、と息を飲む。 小十郎はひどく憤っているようだった。 理不尽な言葉を投げかけられたからだろうか。佐助は小十郎の視線から必死におのれのそれを逸らさぬようにして、す こし笑ってからそういうことじゃないだろうに、と抗った。俺はあんたが、と続けようとして口を噤む。 厭わしいんだとは、どうにも口から出てこなかった。 「俺が、なんだ」 「なんでもねえよ」 「言え」 「俺様の勝手だ」 「猿飛」 猿飛。 小十郎の声が、おのれの名を繰り返し呼ぶ。 気が違いそうだと思った。佐助は必死で呼吸を整えて、あんたはそのままで居なよ、と声を絞り出す。それも事実だっ た。佐助は小十郎に、このままの苦労知らずの若隠居で居てほしい。いずれ戯作を開版することもあるだろう。もしや したら戯作者として名を馳せることもあるやもしれない。それもいい。とてもいい。 小十郎には、きれいなままで日の下に居て欲しい。 「お願いだよ、小十郎さん。 あんたが俺の傍に居たって、いいことなんざひとつだってありゃしねえだろう」 言い聞かせるように、佐助は言う。 小十郎と、おのれの両方に言い聞かせるように言う。 小十郎はまた黙った。佐助はそのままその場から去った。 そして、もう二度と小十郎の元には行かぬと決めた。 決めた通りに、佐助はそれから小十郎と会うのを止めた。 かすがに詰られて、他の連中にも問いただされて、佐助は笑って応えなかった。ただ笑って、もう会わないだけだよ、 と言った。ほんとうならばもっと早くそうしなければいけないことを、ようよう遅まきまがらしただけなのだと。みな 納得はしていないようだったけれども、それ以上佐助を問い詰めることもなかった。 会えない、というのは、もうたったひとつの事実だった。 決して言ってはいけないことをもう佐助はそのときに言ってしまったのだ。 言えば必ず小十郎が返すであろう言葉も、佐助は殆ど知っていた。そのうえで言ってしまったのは、気の迷いか、決別 の為の決定打か、もしくは、嗚呼、と佐助は呻いて笑う。 聞きたかった、と佐助は呆れて息を吐く。 ただ、聞きたかったのだ。 小十郎がおのれの為になら汚れても良いと言うのが聞きたかった。 気付いたら、小十郎の左手首を握っていた。 ひどく近くに夜色の目がある。どれだけ寄っても怯みもしないその目に熱がすうと頭まで昇って、視界の端にちらちら とひかりが舞った。巫山戯るなよ、と掠れる声を絞り出した。小十郎の口角があがる。 「巫山戯てなんざいねェよ」 一瞬だけ目が閉じられる。 それからすぐにそれが開いた。 夜より尚濃いそのいろに、佐助の息が止まる。 「巫山戯て、名を棄てられるか」 「まだ」 まだ間に合うよ、と佐助は縋るように言う。 「あんたなら今から帰れば戻れる。店のひとたちだって心底からあんたを待ってるよ」 「いらん」 「は、あ」 「そんなもの、いらん」 淡々と小十郎は言う。 熱でくらりと頭が揺れた。 「――――あんたなあッ」 襟首をねじり上げると、ひどく軽蔑したように鼻を鳴らされる。 なんのつもりだよ、と佐助は言った。一体なんのおつもりですか。こんな場所で、そんな名で、あんたほどの大店の跡 取りなら奉行にだって頭下げなきゃならねえことはねえだろうに、あんな男の手下に成り下がって。 あんたはそんな男じゃあねえだろう。 「俺は、なァ」 小十郎は目を細めて笑う。 「おまえに俺の、何が解る」 襟首をねじり上げている手を握られた。 小十郎の目がひたりと佐助のそれに据えられる。握られた手は痛い程に締め付けられて、佐助は痛みに眉を寄せた。 佐助の顔を見て、小十郎がくつくつと低い笑い声をたてる。 「これは俺の手前勝手でしたことだ。おまえにはなんの関わりもねェ。 おまえの責でもない。おまえになんぞ問い詰められる由もない。俺がてめェで、勝手に名を棄てここまで来た。 それだけのことだろう。どうしておまえに首根っこ抑えられねェといけねェんだ。とっととその手離しな、阿呆鴉」 まくし立てるように言って、小十郎は佐助を振り払った。 佐助がきつく睨み付けると、小十郎は矢張り淡々と笑い声をたてる。意味が解らないと思った。 目の前の男が、片倉小十郎なのかどうかすらあやういような心地だった。 なんで、と佐助は声を絞り出す。 「なんで、こんなこと」 「ほう」 「可笑しいでしょうに、あんたが、こんな」 「おまえが」 それを問うとはな。 愉快で仕様がないというふうに小十郎は返す。 「聞きたいか」 俺がこうした由を。 聞きたいなら話してやってもいい。 ああ、後悔をするなよ。俺は知らんぜ。 小十郎は振り払われて腰を畳に落としていた佐助の傍まで寄って、ぐい、と今度は逆におのれのほうが襟首を掴んだ。 ひどく近くまで顔を寄せて、真っ直ぐに目を覗き込んで、それからちいさく笑う。相変わらず、と小十郎は笑いを含ん だ声で、ちいさなちいさな声で、つぶやいた。 相変わらず、泣き出す童のような面だな。 「おまえに、会いに来た」 会いに来た。 おまえに。 音が耳の奥で響いて、意味になる前に消えた。 更に言葉を続けようとする小十郎に、佐助はそれを留めるように体を押して畳に倒した。だん、と鈍い音がして小十郎 の体が畳に叩きつけられる。痛みに顔を歪めた小十郎の上に馬乗りに跨って、佐助は太い首におのれの手をかけた。 指の一本一本に、とくりとくりと脈打つ小十郎の脈動が響いてくる。その熱に指が焼け付くような感触がした。動いて もいないのに荒い息を必死で抑えつけて、佐助は目をきつく瞑る。 「そんな」 どうでもいいことで。 佐助は言いながら、鼻先が痛んで涙が出てきそうだと思った。 「お止しよ。あんた、可笑しいんじゃないかい。 どんだけ修羅場潜ってきたか知らねえけどな、この世界は、今生きてたって、明日死んじまって、それでなんの不思 議もありゃしないンだよ。なんの保証も、なんの根拠も、なんの奇跡も起こりゃしないんだよ。 ただ死ぬときは、みんな死んで、死んだらもう二度とこの世にゃ戻れねえんだよ」 「五つの餓鬼でも解ることを、何を叫いてやがる」 「あんたが些ッとも解っちゃいないからだろ」 五つの餓鬼にも劣る。 乳飲み子だってもっと利口だ。 「俺はただ」 声が喉の奥で詰まって、言葉になる前に掠れた息になって口から吐き出された。 無様にそれは咳になる。掠れるような咳を幾度か繰り返していると、小十郎の大きなてのひらが背中に回って、とんと んとやわく叩かれた。ぐ、と首に回した手に力を込めると、それが止んで、代わりに小十郎の細い呻き声があがる。 てのひらの皮膚の感触が、かさついてぬるまったく、堪らなく不快だった。 止してくれ、あんたは何も解ってねえよ。 俺がどんなふうに、あんたのことを突き放したか。 「どんだけそれが、俺にとって」 「知らん」 言われてもねェことが解るか、と掠れる声で小十郎は吐き捨てた。 「解って欲しいなら、てめェできちんと言いやがれ」 言いもしねェで。 勝手にひとを放り出して。 こっちの都合も心情も、どれもこれもお構いなしか。 それで何も解ってねえとぬかすたァ、餓鬼にも劣るのは一体どちらさんだかな。 「先刻も言った」 これは俺の手前勝手だ。 おまえには関係ない。そう言われて、佐助は息を詰める。胸の上に凝りができたように息が下に下がっていかず、呼吸 の機能自体が止まってしまったようだった。息苦しく、頭が熱で篭もってしろくくもっていくような心地がする。 息苦しさが堪らなくなって、佐助は小十郎の首にてのひらをかけたまま、蹲った。小十郎の胸板に額を押しつけて、貧 相な掘っ立て小屋からもれる隙間風のような息を必死で口から吐き出す。 俺はただ、とその息と一緒に先ほどの言葉を佐助は繰り返した。 「あんたに、生きて」 「あァ」 「―――――生き、て、て」 欲しかっただけなんだ。 何処でも、俺の傍じゃなくても、二度と会えなくても。 「死ぬんだよ。いつか、こんな裏道に居たら、死んじまうんだよ」 神も仏も、何処にも居ないことを佐助は知っている。 小十郎は死ぬだろう。佐助と共に居れば、いずれ何処かで死ぬだろう。誰にも顧みられぬような脇道で、数多の死体の うちのひとつとして、異臭を放ち醜く朽ち果て、そのうちに虫が集って骨になる。 嗚呼、と佐助は呻いた。 耐えられぬ。 「お願いだ、戻っておくれよ」 お天道さまの下にお戻りよ。 そうして其処で、戯作でもなんでも書けばいいじゃないか。 俺と会ったのが間違いだったんだ。それは謝るよ。俺があんたを引き入れて、そうしてあんたがこっちの世界に惹き込 まれたのはそれは俺のせいだ。でもこんなのは、ちいとばかしの寄り道で、あんたはあんたの、道があるでしょう。 誰かと一緒にいなけりゃあ、生きていけないなんてことは無いんだよ。 「誰とでも、何処ででも、ひとは生きてけるよ。 ひとが死んでも、ひとは生きてける。それで死ねる程、都合の良い体じゃあない。あんたのそれは熱病みたいなもん で、いずれ笑っちまうような勘違いだったって気付くときが必ず来る」 「猿飛」 「止めてくれ」 その名で呼ぶのは、止してくれ。 佐助は怒鳴って、また小十郎の首を絞めようとして止めた。これ以上は、ほんとうに小十郎が死んでしまう。小十郎の 胸に顔を埋めたまま黙っていると、すいと手が伸びて頭に添えられた。 大きなてのひらがゆるゆると髪を撫でている。 猿飛、と小十郎はまた佐助の名を呼んだ。 「夢を見てな」 丁度おまえが消えて、一年経った頃に。 「二晩続けて夢を見た。 俺は普段夢なんて見ねェ。珍しいこともあるもんだと思った。もうその頃にゃァ、鬱々引きこもってんのも性に合わ んから戯作も書き始めて、ようようおまえの事もまた忘れかけて、いずれ全て忘れていくんだろうと思っていた。 相も変わらず、待ってはいたが」 鈴が鳴る。 りいん、と。 そうして障子を開くと、しろい布がはためく。 「一晩目は、俺が道ばたで死んでいる夢だった」 小十郎は淡々と言う。 佐助の体がひくりと揺れた。 「死んでる。そこらを歩く連中は、顔をしかめるがそれだけだ。 俺は腐って、朽ち果てて、最後は骨になってからから鳴っている。そういう夢だった。気味が悪いとは思ったが、 だからと言ってひとに言うほどのものじゃねェ。放って、次の晩」 また夢を見た。 「今度は、俺が老い果てていた。 何処ぞの座敷に座っている。それだけの夢だ。大層退屈でな。夢のなかなのに寝そうになったくれェだ」 小十郎が笑うので、佐助の体もその振動でかすかに揺れた。 鈴が鳴る、と小十郎は続けた。その座敷の何処かで、鈴が鳴る。りいん、と。 「そうして俺は、それに振り返る」 「―――――――それ、で」 「それだけだ」 小十郎はひょいと肩を竦めた。 そこには何も無い。 誰も居やしねェ。 「虫酸が走った」 俺はあの座敷で、まだ待ってる。 老い果てて、それでもまだ未練がましくおまえの鈴を待っている。 そんなの耐えられるか、と小十郎は吐き捨てた。辛気くせェ。気色悪ィ。吐き気がする。俺はそんなのは、死んでも御 免被る。何処ぞの道ばたで、誰とも知られず、朽ち果てていくほうが幾らか上等だ。 なァ、猿飛。小十郎は髪を撫でながら言った。 「先刻も言ったが、これは俺の手前勝手だ。 だからこれも、おまえが厭うなら俺にはもうどうしようもねェが」 髪を引っ張られて、無理矢理顔を上げさせられる。 佐助は小十郎の目を必死で見据えた。真っ黒い目が、痛い程に真っ直ぐに佐助を見ている。なァ猿飛。小十郎はひどく ゆっくりと、言葉を句切って言う。 おまえが許すなら、と言う。 「おまえのその業を、俺にも背負わせろ」 次 |