佐助はほうけて、それから全身に走る寒気で覚醒した。 弾かれるように小十郎の体から飛び退く。畳に腰を落として、目を見開いて異形のものでも見るように目の前の男を凝 視した。小十郎はつい先刻まで締め付けられていた首を窮屈そうにさすりながら、むくりと体を起こす。 「どうした」 くつりと小十郎は笑う。 目が細くなり、薄い唇があがる。 「怪使いの癖に、ひとに怯えるたァどういった具合かね」 撫でつけられた髪が一房額に落ちているのを、小十郎は掻き上げながらくつくつと笑う。 あやかし、という言葉に、佐助はこくりと息を飲んだ。もうとうに消えたと思っていた男が今目の前に居て、そうして おのれには到底理解の及ばぬ言葉を吐いている。それこそ出来損ないの夏の怪談話のようだった。 背筋を断続的に悪寒が走っている。ああ、と佐助は思った。 ああ、これは。 これは、恐怖だ。 立ち上がった小十郎は、幾度か咳をした。 たまらず出てきたというよりは、喉を調える為の便宜上に出した咳という感じだった。 「俺は」 小十郎は喉を押さえながら言う。 俺はおまえから見れば、まだ遙かに甘ったれた野郎だろう。 「ひとを仕掛けで殺したこたァねェ。死なせたこともねェ。 仕掛けとて、おまえのこなしてきた数に比べりゃァ微々たるもんだ。てめェでも解ってる。まだ足らねェとおまえが 言っても仕様がねェだろうと思う」 「あ、あんたは」 佐助はどもりながら小十郎の言葉を遮った。 「あんたは、どうして」 「うん」 「どうして」 「あァ」 小十郎はちいさな笑い声をたてた。 佐助は口をきつく結んで、小十郎の次の言葉を待つ。 けれども小十郎は何も応えずに、ただ笑い声を仕舞い込んだ後は静かに佐助を眺めるだけで、眺められているほうとし ては胸の辺りがざわめいて真綿で首を締め付けられるような心地すらして、どうにかなってしまいそうだった。しばら く経ってから小十郎はようよう口を開いて、どうしてだろうな、とどことなくたのしそうに言う。 どうしてだろうな。 俺は。 「俺は、おまえらと旅をするのが気に入ってた」 裏道を行くのも、安い木賃宿に泊まるのも、命すら危うい仕掛けに携わるのも。 素直でない山猫回しも、仮面被った小股潜りも、それなりに気に入っていてな、と小十郎は言う。 「いざという時に、放り出されるのが我慢ならなかった。 それだけだ。それだけでは不満か。気に入った連中と、俺はただおなじ土を踏みたかっただけなんだがな」 それはそんなに可笑しいことか、と小十郎はひょいと首を竦める。 佐助は言葉を無くしてしまって、動き方すらも忘れてしまって、ただ小十郎を凝視したままぴたりと固まっていた。そ れを見て小十郎はほうと息を吐いて、すいと手を伸ばし、佐助の髪を掻き上げる。 おおきなてのひらにきれいに五本揃った指の間から、はらはらと佐助の橙の髪が零れていく。 「俺にはまだ随分足らんところがあるだろうが」 この世界で生きる為の術と場所。 それから誰にも繋がらねェ名。 それは手に入れたぜ、と小十郎は佐助の手首を握った。 「あとは何が足らん。 あとは何があれば、おまえの横に立つことは俺に叶う」 「―――――なんでさ」 佐助は思わず悲痛な声をもらした。 握られた手首が痛む。そこから腐っていくような気がした。 「なんで、そんなこと言うんだよ。 あんたはなんでも持ってるおひとだろう。俺なんぞ居なかったからって物の数にも入らねえよ」 「それを決めるのは俺だ」 「あんたが俺の横に立つだって」 佐助は高く笑った。 「そんな日は永劫に来ないね」 小十郎の手を振り払う。 夜色の目がふいに歪む。佐助は構わずに立ち上がり、笠を抱えてそのまま座敷を出た。小走りでそのまま屋敷を出て、 門を潜るときに一度だけ振り返ったが、小十郎は追いかけては来なかった。踵を返して、また歩き出す。 佐助は歩きながら、知らず先刻まで小十郎に握られていた手を掴んでいた。そうしていないと、そこにまだおのれの腕 があることを忘れそうだった。不思議にそこに存在感がない。 まるで小十郎の手を振り払ったときに、それも一緒に切り離されたような心地だった。 根城に戻ると、かすがが居た。 ほおを真っ赤に染めた佐助に、かすがの大きな目が見開かれる。 それはどうした、と問われる。佐助はあいまいに笑って、瓶に溜められた水を杓ですくい、手拭いに掛けてそれをほお に当てた。ひんやりとした水の感触が、熱いほおに染みこんでいく。 しばらくそうしていると、肩をぐいとかすがに引かれた。 「それは、どうした」 「ああ、これかい。ちょっと奉行所のほうで乱暴にやられてねぇ」 いやあ、まいったまいった。 佐助はへらりと笑って、肩にかかったかすがの手を静かに払う。 手拭いをほおに当てたまま板間に腰掛け、天井を見上げる。かすがが訝しげに此方を見ているのが解ったけれども、な にかを取り繕う気にもなれなかった。まだ頭のなかがなにかで飽和しているようで、意識がはっきりしない。 かすがは何も言わず、ただ引き戸に背をもたれて佐助を睨み付けていたが、しばらくしてから口を開いた。 「それはどうした」 「だから奉行所だって言ってンでしょうに」 「嘘だな」 「どうしてさ」 「嘘さ」 くい、とかすがの顎があがる。 半分程ずり下がっていた菖蒲色の肩掛けを羽織直して、引き戸から背を離す。佐助はその流れるようなうつくしい所作 を黙って眺めた。かすがはひどくうつくしい。おさない頃から、今に至るまで、それは変わらぬ事実だった。 どうしてかな、と苦い笑いがこぼれそうになった。 佐助の周りにはどうしてこうもきれいなものばかりが集まるのか。 目に移り込んでくる景色など、どれもこれもが吐き気を催す程に醜いものばかりだというのに、こぼれてしまいそうな ほど手のうちに近いものばかり、手放しがたくいずれのものも尊いいろしか纏わない。 いずれ消えていくものだと思えば、それは嫌がらせのようだった。 目の前の女の髪が、まばゆいほどの黄金色をしていなければいいのにと佐助は思った。目が薄い鳶色でなければいいの にと思った。肌が新雪のようにしろくなければ、首が折れるほどに細くなければ、この女の唇からこぼれてくる音が泣 きたいほどのやさしさを含んでいなければ、いつか消えることを考えても狂う程に恐れることもなかったのではないか。 ひとつで充分だ、と佐助は首を落として、板間を凝視する。 こんなに重いものを、ふたつもみっつもとても持っていられるものではない。 「嘘なんてなンにも吐いちゃいないよ」 へらりと笑う。 かすがの顔が歪んだ。 「では話せ」 「なにを」 「一体どういう仕掛けだ」 狭山藩の大目付は、奉行所に捕らわれてそこでおのれの所行を吐いたらしい。 瓦版でそれは大坂の町中に散らばっている。おそらくは打ち首であろう。 「加代さんの望み通りだ。 おまえがしたことではない。私がしたことではない。では誰がした」 「―――――――――奉行所の、伊達政宗ってぇおひとだよ」 「どうやってだ。あの場所で一体何が起きた。何がどうなって、あの男は気狂いになった」 「そんなこと」 「貴様が知らぬわけがない」 佐助の言葉を遮って、かすがはぴしゃりと吐き捨てる。 佐助は黙りこくった。騙すことが出来ぬではない。けれども相手は他の誰でもなくかすがで、この女におのれの舌先が 通じるかどうかは佐助にも解らなかった。 では言うか。 佐助は視線を落とす。 「いつかの、越後での仕掛けを覚えてるか」 口を開いて、ちいさくつぶやく。 かすがはすこし考えてから、あの小豆荒いの仕掛けか、と言う。佐助は頷いた。 「あれと一緒だよ」 「どういう意味だ」 「三つ、芝居があった。どれもこれもが、全くちがう芝居だ。 ただし出てくる人間の名が、どれもあの男に関係している。それからひとの殺り方が一緒。それでああだ。まあああ もなるだろうさ。なにしろあの芝居は鳴り物入りで、大坂中が見に来てる。てめェの所行が、あンだけ大々的に演ら れちゃあ、ああもならぁね」 佐助は笑って、それから黙った。 かすがの肩から、肩掛けがするりと落ちる。 それがそのまま土間に落ちるのを佐助はぼんやりと眺めた。それは、と掠れた声でかすがが言う。佐助はなにも応えず に、ただ同じ体勢のままでその声が途切れていくのを聞いた。 「まさか」 「ねえ」 笑っちゃうよな、と佐助は笑わずに言う。 「まさかこんな三文芝居みてえなことがあるなンてねえ」 死んだと思った奴が生きてるなんてな。 三文芝居だ。佐助はもう一度そう言って笑った。あそこで佐助が小十郎の手を取れば、そこら中に満ち溢れている戯作 を探れば十冊に一冊は出てくるような話になっただろう。 片輪唐須の書く戯作はどういうものなのだろうと佐助はふと思った。もしかしたらそんな甘い人情物ばかり書いている のだろうか。だとしたらお笑い草だ。ほおが緩んだ。 視界の端にあった肩掛けが、しろい手にすくわられる。 「かすが」 顔をあげると、かすがは引き戸に手をかけていた。 「どうしたのさ」 「行く」 「何処へ」 「奉行所だ」 当たり前だろう、とかすがは言う。 佐助は眉を寄せた。 「まさか、会いたいなんて言うンじゃねえだろうね」 「そのまさかだ、と言ったら」 「嘘でしょう。おまえはもっと賢い女の筈だろ」 「愚かで結構だ」 振り返って、かすがはにいと微笑む。 私は行くよ。からり、と引き戸が開かれた。弥生のつめたい空気がひゅるりと長屋に入り込んでくる。黄金色の髪がさ らさらと揺れて、ひかりを撒き散らした。佐助は目を細める。かすがも笑みに目を歪ませた。 「会いたい。だから会いに行く」 それだけだ。 それ以上のなにかが要るか。 かすがは佐助を見下ろして、風に揺られる肩掛けを握りしめながら唄うように言う。私はおまえとはちがう。おまえと ちがって、自分を偽ることはしない。 あれは私の兄だ。 「死んだ男が生きてた。会いたいと思って何が悪い」 「――――――おまえまでそんな、黄表紙みたいな台詞を吐くとはね」 「黄表紙。いいじゃないか。三文芝居。何処が悪い。 くだらん芝居にも草紙にも、誰も彼もが何時の世にも金を出すのはなんの為だ」 夢物語を、誰も彼もが読み漁る。 それがこの世に無いと知って、それでもなおそれを求めるからこそ身銭を切ってひとは物語を綴り求める。 現は生きるにはあんまり辛く、夢に浸かるはひとときの逃避ではあるけれども。 あるけれども。 「それでもそれを求めるが、ひとの性だ」 「俺はもうひとじゃねえよ。おまえもだろう」 「私はひとさ。ずっとそうだよ。ひと以外になどなれやしない」 「今更だ」 「ちがうな」 かすがは鼻で笑った。 貴様が気に掛けているのはそんなことじゃあない。 引き戸から体を離して、かすがは佐助の傍に寄った。厚い唇についと細い指を這わす。そこは小十郎に殴られたせいで 切れてかすかに血を流していた。かすがは唇に這わしていた指をそのまま顎に下ろし、持ち上げる。 息が触れる程の距離にまで顔を近づけて、艶然と笑む。貴様が恐れているのは、と言う。 あの男が死ぬことでも、変わることでも、ましておのれの決め事を破ることでもない。 「死んで腐って朽ちて尚、あの男の口でも吸いそうなおのれが怖いんだろう」 「―――――――――ッ」 佐助は思わずかすがの手首を掴んだ。 強い力で握りしめる。かすがは平然とした顔をしている。ほおに当てていた手拭いが落ちた。 「図星か」 「ちが、う」 「嘘だな」 「ちが―――――う、ちがうちがう、ちがうッ」 「口が武器の小股潜りがなんて様だ。見苦しい」 かすがは呆れたように吐き捨てて、佐助の手を振り払った。 板間に落ちた手拭いを拾い上げて、佐助の顔に投げつける。濡れた感触が目の辺りに当たって、ずるりと落ちていく。 おまえが怯えてあの男から逃げようと、おのれを忌んで二度と会わないと決めようとそんなことは私とはなんの関係も ない、とかすがは言って、立ち上がる。 私は私の意思であの男に会いに行く。 「いい加減にしろ、痴れ者」 鳶色の目がきつく佐助を睨め付けた。 「私は貴様の荷物じゃない。私は私だ。 言い訳に私を使うのはもう止してもらおうか。無論、あの男も貴様の荷物であるはずがない。 貴様があの男に会えぬのは、貴様が臆病者だからだ。 私のせいでも、あの男のせいでもない。ただただ貴様が情けない男だからさ」 「―――――――――随分、言うねえ」 「言いたくもなる。貴様は何処まで馬鹿なのか」 会いたかったんだろう、とかすがは静かに言う。 会いたくて会いたくておのれのなかの時さえ止まる程に焦がれたんだろう。 ぐい、と胸ぐらを掴まれる。かすがの声は憤ってはいない。興奮してもいない。静かな夜の風を思わせるような声だっ た。寂しい声だった。なにかを諦めているような声だった。 「何故目の前にそれ程求める相手が居るのに、おまえは此処に居る」 呆れるような響きがある。 もしくは同情をしているのかもしれない。 胸ぐらを掴んでいた手がゆっくりと離された。 かすがは佐助を見下ろしたままに後ずさり、そのまま引き戸から足を出す。私は行くぞ、と言う。私は行くぞ。誰に言 われたからでもない。私が行きたいから行く。 「随分長い間、貴様に独り占めされていたからな」 風が吹く。 かすがの髪が揺れる。 「死んだ男の口を吸うよりは、私は生きた男の顔を見に行く」 髪がきらきらとひかった。 そして戸が引かれる。かたん、と音が鳴る。 蝋燭も灯さぬ長屋のなかは途端に暗くなった。佐助はしばらく立ち尽くしてから、息を吐いて板間に腰を下ろす。それ から仰向けに寝ころんだ。低い天井にきらきらとひかる銀色のものが見えて、ああ蜘蛛の巣だ、と思う。 てのひらを其処へと伸ばしてみた。 勿論届かなかった。 「嗚呼」 伸ばしたてのひらでそのまま顔を覆う。 目を閉じると闇だった。夜ではない。闇だ。 月が導になることもない、星が瞬くこともない、ただの闇だ。 そういう場所に佐助は居る。 かすがも届かぬ場所だ。 届かせてはいけない。佐助だけがこんなものは見ていればいい。 ひとが死ぬのを見過ぎたのだろう、と思う。ひとは死ぬ。ひどく簡単に死ぬ。昨日生きていて、明日生きていないこと には何の由もなく、そこに何の繕いもされない。どれだけ執着していても、どれだけいとおしんでいても、次の瞬間に 息をしなくなって体がつめたくなっていく。 そこで諦められればまだいい。 そうでない者を、佐助は腐るほどに見てきた。 「いやだな、やだよもう、ほんとに」 ああはなりたくない。 死んでもまだそれに縋り付くのは御免だ。 おまえの業を背負わせろ。小十郎はそう言った。佐助はくつくつとひとり肩を震わせて笑う。笑うしかない、と思った。 業などと生やさしい物であったなら、佐助もどれだけ楽であっただろう。 これは性だ。 佐助の忌むべき性でしかない。 てのひらを除けて天井を眺める。闇にようよう慣れた目は、暗い長屋のなかでも物をしかと判別し出す。薄汚い天井に は蜘蛛の巣だけでなく、埃や腐った木や、訳の分からぬもので満ちている。きたない。佐助は眉を寄せた。 小十郎も、と思う。 小十郎もきっとそうだろう。 小十郎が佐助を想うのは、佐助を知らぬからだ。 知れば。 知れば、どうするだろう。 小十郎はきっと、おのれの為に佐助が身を退いたと思っている。そしてそれが我慢出来ない。あの男のなかでは、佐助 はひどくきれいなまま残っている。そんなものは一欠片にしか過ぎぬただのまぼろしだと小十郎は知らない。佐助がと もすれば小十郎を此方側に絡みとって、おなじ闇に突き落とそうとしていたことなど知らない。 知れば―――――――――と、佐助は声に出してみた。 肩が震える。それを手で押さえつけた。 ちいさくつぶやいてみる。 「あんたはそれでも、俺を欲しがるかな」 それは奇跡に近い可能性のような気がした。 小十郎は幻滅するだろう。佐助がこんなにも薄汚い男だと知れば、気高いあの男は見限るだろう。 いっそそうしようかとも思った。言ってしまおうか、と思う。言ってしまおうか。俺はあんたが何処までも俺のところ まで墜ッこちて来て、そうして其処で死んだとしても手放せそうもねえくらいに執着してんだよ、とでも言ってやろう か。そうすれば小十郎は佐助を厭うて消えるだろうか。 そうしてしまおう。佐助は身を起こして首を振った。そうしよう。小十郎にこの薄汚い心中を包み隠さず打ち明けて、 そして身を退かせよう。さぞかし後悔をするンだろうな、と佐助は思った。こんな男の為にこんな場所まで、と小十郎 はひどくおのれを悔やむだろう。 佐助は笑い声を立てた。 「あんたは馬鹿だよ、小十郎さん」 誰も居ない宙へ言葉を放る。 「ほんとうに馬鹿だ。ほんとうに」 俺なんかを追ってこんな場所まで来て。 精々後悔すりゃあいい。心底から俺を憎めばいい。 俺のこの薄汚い性が、あんたに背負えてたまるものか。 嗚呼、でも。 ―――――――――殴りに来てやったぜ 約束通りに。 愚かしい。 佐助は笑った。 三文芝居のようなあの男の言葉が、ひどく痛くて笑わなければ泣きそうだった。 次 |