痛みではなくて熱を感じた。 流れる血はぬるまったくて、おのれの中の一部であったものとも思えぬほどに醜悪で気色悪いもののような気がする。 叫び声が鼓膜を破るかと思ったが、それでも必死でちいさな体を抱き締めた。幾度も幾度もおなじことばを繰り返すう ちに、おのれはそのことばしか知らぬのではないかという可笑しな妄想に取り憑かれそうになった。 夜 を 飼 い 慣 ら す ごろりと足下に転がったしのびを片倉小十郎は見下ろした。 どくんと胸が騒いだのがわかったが、顔には出さぬように努めてながら出した声はおのれでも感心するほどに無感情で ひややかな音であった。 「これは、なんで御座いましょうや」 渡り廊下で他の小姓に具足を脱がさせながら、伊達輝宗はしのびであろうと答える。小十郎は苦く笑う。 「間者でございますか」 「いやちがう。先の戦に巻き込まれたのであろうよ」 かちゃりと具足を脱ぎ捨てて、輝宗はふうと息を吐く。 処理をしておけと命じられ、小十郎は跪いて御意と答えた。そのまま去っていったかとふいと顔を上げると、輝宗はす こし痛々しいものを見るような目で小十郎を見下ろしていた。 如何致しましたかと問うと、雄々しい眉が寄せられる。 きずは―――と、輝宗は言う。 「癒えたか」 「お陰様で、もう痛むことも御座いません」 「そうか」 済まなんだなと輝宗は言う。 小十郎は頭を下げて、勿体ないお言葉に御座いますと真っ直ぐに言った。顔の横にさらりと頭の天辺で括ってある黒髪 が流れてきて、ひどく鬱陶しかったが、廊下の軋む音が消えるまで小十郎はその姿勢のままに微動だにせずにいた。 沈黙がおのれの上に落ちかかって来たのを確認して、立ち上がって歩を進めた。かつん、と指先に転がされたしのびの 腕が当たって音が鳴る。しのびからはたらたらと血が流れていた。腕から足から体中のあらゆる場所から、赤い液体が 命を押し流すように流れ出ている。 しのびはおさなかった。 おさないと言っても、おそらくは小十郎と同じかもしくはそれを幾つか下る程度である。短く刈り込まれた髪は、真夏 の夜に浮かび上がってくる不気味な月のように禍々しく赤い。肌はもう死んでいるのではないかと思うほどにしろく、 まとっている装束は森の色をしていた。 目は閉じている。 右眼からは血が流れていた。 ちり、と左のほおが痛むような気がした。 空いているほうの手をやったが、ぱりぱりと瘡蓋の感触がするだけである。瘡蓋はすうと真っ直ぐに目の下から首筋ま で斜めに繋がって、耳の下で途切れている。かり、と耳の下を掻いて指を眺めてみると、皮膚の一部が爪の間に入って いた。歯でそれを削るように口に含み、地面に吐き捨てた。 侍医のもとへ連れて行くと、ほとんど糸のような目をした老人はぱちくりとその目を瞬かせ、 「この者は」 と問うてきた。 小十郎は一瞬ひやりと背筋を冷やしたが、咄嗟に俺のしのびだと答えた。訝しげな目を向けられて、それを封じるよう に目を細めて睨み付けてやった。竦み上がるように体を引いた侍医に、小十郎はもう一度おなじことばを繰り返す。 「こいつは―――俺の、しのびだ」 てめェの命にかけて治せ。 筵の上に乱暴に血だらけのしのびを転がして、小十郎は逃げるようにその場を去った。 怯えるような目を見ると、小十郎は泣いてしまいたいようなきもちになる。 しかし泣けば尚更に目の前の幼い主が怯えることを知っているので、未だ引き攣るほおを必死で笑みの形に歪めてから 腕を伸ばして黒髪を撫でた。 ぼんてんまるさま、と主の名を呼ぶ。 「もうすっかり傷は癒えました。ご心配なさることは御座いませぬ」 「ほ、ほんとう、か」 座敷のなかでもいっとう隅で梵天丸はかすかに顔を上げる。 日のひかりの差さぬその場所に居ると、ちいさな主は影と一体になっているようである。顔の半ばを覆っている晒がす こし緩んでいたのが目に止まったので、小十郎は梵天丸の頭に置いていた手をするりと下ろして、晒を直そうとした。 ひゅ、と息を飲み込む音がした。 「―――い」 どん、と小十郎の体が押される。 手を畳に付いて、顔を上げる。梵天丸の顔は醜く歪んでいた。 次いで口から漏れ出したのは既に声ではなく、金属が擦れるような耳障りな音だった。小十郎は呆然として、その不快 な音の元が主であることにしばらくは気付かないまま呆けていた。片方だけの目を見開いて、裂けるほどに口を開いて ただ叫び続ける主をようやく認識したあとに、小十郎はふたたび手を差し出す。 が、それは振り払われた。 「やるものかッ」 梵天丸は右眼を押さえながら叫んだ。 「これは、これはははうえがくれたおれのめだ。だれにもやらん、だれにもやらん」 「梵天丸様、違います、違います、小十郎はただ」 「いやだ―――いやだ、いやだいやだいやだいやだぁああああッ」 何処にも繋がっていない壁を梵天丸は掻きむしった。 爪が折れて血が壁にこびりつく。小十郎は細い腕を強く掴んで引き寄せた。胸のなかに押し込めるように抱き締める。 そのうちに梵天丸はひくりと痙攣して、ひゅうひゅうとおかしな呼吸をし出した。強く背中をてのひらで叩くと、痰が こぽりと出てへたりと背中が曲がる。 ぽろぽろとひとつの目から涙が零れていた。 小十郎は顔を歪めて、梵天丸の体を畳に横たえて一歩下がる。 「申し訳ありませぬ」 畳に額を擦りつけるようにして言った。 短い呼吸をしている梵天丸は、ちがう、と掠れる声で答える。ちがうこじゅうろうはわるくない。 「おれ、おれが、おれがおくびょうなんだ」 「そうではありませぬ。小十郎が梵天丸様のお気持ちを考えずにあのようなことを」 左のほおがちりちりと焦げるようだった。 梵天丸のちいさな手が、縋るように小十郎の肩にかかる。わるくないと幾度も幾度も泣きながら言う。小十郎は顔をあ げて梵天丸をそっと抱き寄せた。申し訳ありませぬ、ということばは驚くほどに必死なものになった。 もうしわけありませぬ。 ちいさな体はあんまり頼りなくて、小十郎は黒い髪に顔を埋めながらすこしだけ泣いた。 右眼の潰れたちいさな主は、泣き疲れて眠ってしまった。 布団のうえにそれを横たえて、薄い毛布をかける。潰れるほどに叫んだ喉はひゅうひゅうと音を立てて息を吐き出して いた。しばらくそれを眺めてから、小十郎はまたひとつ頭を下げてもうしわけありませぬと言った。 からりと障子を開くと空は既に茜色になっていて、それでも体を包み込んでくる風は夏の熱に燻られてぬるい。おのれ に与えられた座敷に足を踏み入れると、生薬のにおいがつんと鼻先をついてきた。座敷の中央に、両目を晒で巻かれた 先ほどのしのびが横たえられていて、その横に侍医が座り込んでいる。 ちり、とまた傷が痛んだ。 侍医が顔をあげる。 「小十郎様」 「済まねェ、待たせたな。そっちは―――」 しのびは藍色の着流しを着て、体中に晒を巻いている。 命に別状は御座いませぬと侍医は言った。見れば解ると小十郎は返し、それで、と続ける。 「目、は」 言いながら目を閉じた。 そうしたら黒ずんだ赤がそこから流れ出しているのが、瞼の後ろに押しつけられるように蘇ってきて思わず小十郎は低 く呻いた。侍医が立ち上がり、どうかいたしましたかと問う。なんでもないと障子の桟を握りながら首を振り、それで 目はどうなんだとすこし低くまた問うた。 右眼がかろく傷付いておりますと侍医は答える。 「しばらくは不自由することになりましょう。左のほうには傷は御座いませんが、そちらだけ使っていると見えるよう になった折に左右の目が不均等になります故塞いでおりまする」 「見えるようになる」 小十郎は目を開いた。 「見えるようになるのか」 「なりまする。何か―――恐らくは、錆びた刀かそうでなければ尖った木のようなもので瞼を斬り付けられたのであり ましょう。幸い、中身のほうには傷は付いておりませなんだ」 「では」 「一月程すれば、見えるようになりましょう」 「そう、か」 侍医のことばに、小十郎は桟に手をかけたままずるずると膝を突いた。 侍医がいかがいたしましたと慌てた声で問うてくるのに、首を振って応えながら、小十郎は畳の目を凝視する。そうし てくつりと笑って、見えるようになるのか―――と。 絞り出すように、言った。 毎夜夢を見る。 汗だくで跳ね起きると、いつもまだ辺りは暗く、小十郎は夜なのだと知る。知って、また寝ようと目を閉じるがどんな に強く目を閉じてもふたたび眠りが小十郎のもとを訪れてくれる夜は、忌々しい程に例外なく無い。 髪がべったりと首筋に張り付いている。それを苛立たしげに振り払って、小十郎は膝に顔を埋めた。 「―――ちくしょ、う」 見ている夢の内容は思い出せぬ。 ただ起きた後はいつも、右眼が鉄の棒か何かで抉られたように痛む。それでああきっとおのれはあの夜のことを夢に見 たのだと解る。ひどい嫌悪感が全身を覆って、できうるならおのれの右眼を繰り出してしまいたくなる。そうしてその 思考のあまりの女々しさに、全身で小十郎はおのれを厭うた。 荒く息を吐いて、どうせ眠れぬとは知りながら小十郎はまた枕に頭を乗せようとした。 がばり、と起き上がる。 「誰だ」 襖の向こうにひどい殺気を感じた。 しばらく待ったが返事はない。無論曲者ならば返事をするわけもなく、枕元に置いてあった脇差しを腰に添えて小十郎 はからりと襖を開いた。 高い声がくつりと笑う。 「こっちの台詞だぜ、そりゃあ」 月のひかりも差し込まぬ奥の間で、晒と肌のしろだけがうっすらと浮かび上がる。 小十郎は脇差しを握ったまま、襖を後ろ手に閉じた。柱に括り付けておいたしのびの前まで歩み寄り、起きたか、と呼 びかける。どん、としのびの踵が強く畳を蹴りつけた。さらされた足首を、小十郎は強く押さえつけた。 ぐう、とくぐもった唸り声が漏れる。 「暴れるな。気付かれてェのか」 「そらァご親切にどうも―――ついでに教えちゃ頂けませんかね」 あんたはだれで、ここはどこだ。 小十郎は黙った。その沈黙をどう判断したのか、しのびはくつりと笑い、 「だンまりか」 投げ捨てるように言った。 小十郎は黙ったまま、ふと気付いて目を見開いた。脇差しを放り出して、空いた手をしのびの口のなかに突っ込む。鋭 い痛みが指を貫いた。がちん、と骨と歯がぶつかる音が座敷のなかに響いた。 痛みに眉をひそめながら、小十郎はおのれの襦袢の裾を噛み切って指の代わりにしのびの口に押し込んだ。唾液と血液 が流れる手の甲を振り払い、馬鹿なことをと吐き捨てる。獣のような唸り声がまたあがった。柱に括り付けられた手首 を外そうとする動きできしきしと晒が音を立てる。 小十郎はほおを打とうかと手をあげたが、音が鳴ると思い直して代わりに腹を殴りつけた。ひゅう、としのびの喉が息 を止める音が鳴る。激しく咳き込み出す男の口から布が出ないように抑えつけながら、小十郎は死なせん、と唸るよう に言った。置かれた立場を理解しろ、と続ける。 「おまえの命は、俺が握っている」 袷を握りしめた。 声を出しながらなんという掠れて無様な声かと小十郎は叫びだしたいような衝動に襲われたが、叫べば小十郎こそ舌を 噛み切るだろう。これ以上おのれを嫌悪すれば、存在することすら厭わしくなる。 死なぬと誓えば口の其れを取ってやる、と吐き捨てて小十郎は立ち上がった。まだ恨めしげに唸り声をあげているしの びを振り返りもせずに、襖を引く。 布団には戻らず、障子を開いて中庭に出た。 なまぬるい風にさらされて、右手の生傷がひりつく。 それを押さえて、くつりと小十郎は笑った。 笑うしかないほどに、ただおのれが情けなくて仕様がなかった。 翌朝、矢張り一睡もせぬままに布団から身を起こすと、またどんどんと畳を蹴りつける音がした。 髪を結い上げ、からりと襖を開く。柱に括られたしろい晒に血が滲んでいた。小十郎は眉を寄せて、そんなに死にたい のか、と問う。しのびの細い首が振られた。 「噛まねェな」 今度は縦に振られた。 小十郎はすこし考えて、しゃがみこんで口から布を取り出した。 しのびは激しく咳き込んだ。そうしてから、乾いた笑い声を漏らす。気でも狂ったかと小十郎が身構えると、くつくつ と肩を震わせながら、しぬところだったぜと男は言った。 「死なせん、って宣言しといてさァ、こちとら窒息寸前だ」 固まった血を吐き出して、そう吐き捨てる。 小十郎はそれには応えずに、名は、と問うた。今度はしのびのほうが黙った。それから太郎、と言う。小十郎は思わず 舌打ちをした。あきらかな偽名である。 しのびの名なんざ一文の得にもならん、と小十郎は言った。 「呼ぶ時に使うだけだ」 「呼ぶ。あんたが。俺を」 しのびは高く笑った。 そして殺せよ、と言う。 「名なんざいらねえよ。簀巻きにして川にでも流せば事足りるだろう」 小十郎は顔をしかめた。 畳を睨み付けて、それから絞り出すように言う。 「殺さねェ。おまえの目は治る」 笑いで震えていた男の肩がぴたりと止まった。 それを掴んで、言い聞かせるように小十郎は続ける。なおる。なおるから、しなせねえ。しろい晒がかすかに日のひか りを浴びてその染みを浮かび上がらせた。涙であろう。それが生理的なものなのか、それともしのびといえども捕らわ れの身の儚さに零したものなのかは小十郎に判ずることができるわけもないが――― ちいさいこどもが瞼の後ろに浮かんだ。 「俺が治す。それまでおまえを此処から逃がす訳にはいかねェ」 肩を押して、吐き捨てるように言った。 しのびが息を飲むのがわかった。無理矢理に口を開かせて、また布を詰め込む。抗議するように足がばたばたと動いた が、足の傷を覆っていた晒を巻き取って代わりに足首を縛り付けて動かせぬようにした。 芋虫のように無様に転がったしのびを見下ろして、小十郎はきつく目を閉じた。見つかればひどい処罰が小十郎には降 るだろう。他国と通じていると思われ、一族にまで害が及ぶことも考えられる。このしのびとて、小十郎が即座に処分 すれば味合わずともよかった拷問を受けた挙げ句に、塵のように殺される。 小十郎は目を開いた。 「食事を持ってくる。暴れるな。見つかれば、お互いに終わりだ」 そう言って、襖を閉じた。 閉じた瞬間に昨夜噛みつかれた手の甲の傷が目に入って小十郎は目を細める。それから首を振って、踵を返した。袴を つけながら、自己満足だとおのれを笑う。 障子を開くと日が目を刺した。 両目ともが痛みを感じるのが、小十郎は何故だかひどくかなしかった。 次 |