世界が闇で満たされているというのは、どういう心地がするのだろう。 眼下の雑兵の腕がふいに伸びて、気付いたら肩に槍が貫通していた。痛みに目を見開きながら小十郎は刀を首に突き刺 す。血飛沫が散った。熱い液体が肩から流れている。 膝が崩れそうになるのを律しながら、目を細めてもう息絶えた雑兵の顔を目に焼き付けた。それは引き千切られるよう な感触を小十郎に与えたが、目を逸らすのは逃げである。雑兵の口はもう動いていない。すこしまえまで、恐らくはお のれの子の名をつぶやいていた口がその名を綴ることはもうない。 小十郎は生きている。 だから解らぬ。 この雑兵は、夜のなかに居るのだろうか。 夜 を 飼 い 慣 ら す 二 「情けないこと」 ぱん、と肩を叩かれると激痛がはしった。 思わず呻き声が漏れる。畳に手を突けば、喜多は息を吐いてすこしだけ笑った。 「景綱さんらしくもない。戦場で油断召されるなど」 「―――油断など」 「でなければあんな雑兵にあなたが傷を付けられる筈もないでしょう」 小十郎は黙って肩を押さえる。 覗き込むように義弟を眺めていた喜多は、ほう、と息を吐いて首を振った。梵天丸様になにかありましたかと問われて 初めて小十郎は顔をあげた。 「しばらく、座敷にお籠もりだったと聞きましたけれど」 喜多の言葉に顔をしかめる。 もうお出でになりました。そう言うと喜多はまた息を吐いて、小十郎の頭にちいさな手を置いた。ぽんぽん、と頭を叩 かれて小十郎は目を細める。時折、この半分だけ血の繋がった姉は小十郎をこうやって童のように扱う。 焦ってはいけませんよと喜多は笑う。 「上手に、要領よく、そうやって梵天丸様をお育てさせるのならば、何もあなたが傳役になることはないのです。 御館様がどうしてあなたをお取り立てになったのか、その意味をよく考えてご覧なさいな」 「意味」 「そう」 目を上弦に細めて、喜多は小十郎の左ほおに手を伸ばした。 小十郎は思わず身を退こうとした。が、強く腕を掴まれてかなわず、結局ちいさな手は長く伸びた瘡蓋にそぅと触れて しまう。ちり、と痛んだ。喜多は切れ長の目を強く小十郎に向け、名誉だと思いなさい、と言う。 小十郎はくしゃりと顔を歪めた。 吐き出すように、強い声が漏れる。 「この傷は―――俺の、一生の咎だ」 喜多の手を振り払って、拳を畳に叩きつける。 ひくりと喜多が竦んだ。それに強く視線を向け、申し訳ありませんがと小十郎は立ち上がる。 「傷の手当てなどにお手を煩わせました。 姉上はもうおさがりください。あとは、俺がひとりでいたしますゆえ」 「景綱さん」 「おさがりください」 低く言えば、喜多は諦めたように目を逸らした。 が、また視線を上に向け、負けじと睨み付けてくる。小十郎はそれをひややかに見下ろした。八つ当たりであることは 知りつつも、姉には解らぬのだと叫びだしたい衝動はどうしようもない。 名誉だと聞いたとき体が熱くなった。 あれがそんなものであるはずがない。 しばし睨み合ったあと、喜多はすくりと立ち上がって障子を開き出て行った。 残された小十郎は、開け放たれた障子の向こう側の中庭を見ながら漏れそうになる息を必死で堪える。じくじくと肩の 傷は痛むが、骨などに異常はないので動くことに支障はない。傷を負ったのは戦ももう終わる頃であったから、他の人 間になにか面倒をかけたということでもない。 残った凝りは、ただ小十郎のなかにある。 「下らねェ」 つぶやいてみた。 ひとを殺すことを躊躇ったことなど無かった。初めて戦場に出たときは、ひとを殺すことはこんなにも簡単なのだと拍 子抜けしさえした。戦働きで他の人間に負ける気は一切しなかったし、命の遣り取りを快く思うことも一度や二度では ない。それが武士であろう。疑問を感じることすらなかった。 感じるべきではないのだと今でも思う。 澱みそうになる思考を振り払うように小十郎は立ち上がった。飯炊き場からこっそりと拝借してきた食料を隠した革袋 を抱えて、奥の間に続く襖を開く。からりと襖が開く音と、だんだんと納戸の戸を叩きつける音が同時にした。 眉を寄せて襖を閉じ、革袋を置いてから納戸を開く。ごろりと男がひとり転がり出た。 「狭いうえに黴臭い。こりゃ新手の拷問かよ」 鼻で笑って、男は顔をあげる。 小十郎は眉を寄せて息を吐いた。 「煩ェしのびだ。殺されんだけ有り難いと思いやがれ」 「ごもっともだ。済みませんが、起こしていただけますかね」 右足を伸ばしたまま起き上がろうとするしのびの肩をひょいと掴んだ。 だらりとそれに従う腕は見た目より余程しっかりしている。しのびが抵抗したのは最初の一日だけで、あとは驚く程に ただ小十郎のされるがままになっていた。情報を聞きだそうと拷問をするわけでもなく、殺そうとするでもないのなら ば従うほうが得策と見たのだろう。しのびに矜持があるわけもなく、ただ感情を殺したように男は小十郎の庇護を受け 入れている。何故とも聞かれぬ。 聞かれても答える言葉を持たぬ小十郎には、それが有り難かった。 口を開け、と言うと厚い唇が開く。そこに煮染めを箸で運ぶと、閉じられて咀嚼する音がしばらく静かな座敷のなかに 響く。また開かれるとそこに何かを運ぶ。それを繰り返す。こうしていると、時折傷を負った鳥かなにかに餌付けして いるような気分になる。 勿論そんなにうるわしい行為ではない。 「明日から、寺に行く」 握り飯を箸で割りながら、小十郎は言った。 しのびは開いていた口をすいと閉じる。 「寺」 「そうだ。主に付いて、しばらく其処に籠もることになる」 虎哉宗乙という僧が居る。 輝宗が梵天丸の為に呼び寄せた臨済宗の僧である。その僧が住職を務める資福寺という寺にしばらくの間梵天丸は滞在 することになっていた。勿論小十郎も同行することになる。 「おまえも連れて行く」 箸で米をしのびの口に運びながら、小十郎は続ける。 輝宗にそのことを告げられたとき、好都合だ、と思った。小十郎は伊達家のなかではまだ若輩であり、父の地位も低く 嫡男の傳役という立場ではあるが梵天丸を快く思わぬ勢力は強い。いつまでも城内に男ひとりを隠しているのには限界 があった。が、山奥の寺なら話は違ってくる。 しのびは咀嚼しながら、口角をあげた。 「否やはないよ。お気に召すままにすりゃあいい」 「一日程はそこの納戸に籠もってろ。夜、迎えに来る」 「あんたが」 「当たり前だ」 「そりゃちょっと無理じゃないの」 くつりとしのびは笑う。 「肩からそんだけ血のにおいさせて、俺ひとり背負うのはとても無理だぜ、お坊ちゃん」 しのびは、小十郎の名を知らぬ。 なのでいろいろな呼び名で呼んだ。すべて蔑称である。小十郎は黙ったまま、押し込めるように残り全ての米を男の口 に放り込み、箸を置いた。肩の傷は痛む。おそらく男をひとり抱えて山を登れば、開くだろう。 もごもごと口を動かしているしのびの顔を見た。しろい晒が目を覆っている。 「連れて行く」 断ち切るようにそう言うと、こくんと米を飲み込んだしのびがすぐに返してきた。 「死ぬぜ」 「死なねェ」 「あんたさあ」 馬鹿だろう。 小十郎はそれには応えず、革袋のなかに箸と葛を放り込んだ。 なにかを疑問に感じたことはなかった。 鍛えればおのれの体は強くなり、学べばおのれの知識は増えた。梵天丸と初めて会ったときも、幼子の扱いなど知らぬ と怯んでいた心と裏腹に、愛情を知らぬ子供はすぐに懐いた。いとおしいほどに怯える子供は聡く、仕える主としてい かほどの不足もない。小十郎の与える知識も技術も、梵天丸は大地が雨を吸うようにおのれに組み込んでいった。初め て顔を合わせてからひととせ、驚くほどに梵天丸は変わった。 ただ片眼は腐ったまま、まだ右にぶらさがっている。 もう決してひかりを取り戻すことのない目である。 武将として、片方の視界が限られているというのは厭うべき欠点でしかない。しかしそれはもう言っても仕様がないこ とだ。見えぬ眼球ならば、いざ戦の折に弱点としてぶら下げているよりも、切り取ってしまったほうが余程いい。小十 郎はそう思った。 「おれのみぎめをどうおもう」 だから、そうやって問われた時にもそれを言った。 梵天丸は片方だけ残った目をくしゃりと細め、そうか、とだけ言った。ではきってくれ、と続けられた言葉に小十郎は ひどく誇らしいと思った。齢九つにして、もはやこの童はそのような勇を備えている。 小刀を燻って、細い肩に手をかけた。 その瞬間まで、小十郎はおのれが間違っているなどと一瞬だとて思うことはなかった。 真っ直ぐに小刀が目に入っていこうかという瞬間、梵天丸は急に叫びだした。 小十郎は慌てた。小刀の切っ先をちいさな手は握りしめ、そこからは鮮やかな赤がたらたらとこぼれ落ちる。思わず小 刀を引こうとしたら、逆に梵天丸の強い力で振り払われた。かたん、と畳のうえに落ちた小刀の柄を梵天丸は掴んで、 体を押さえつけようとする小十郎に斬り付ける。 ざくりとほおに熱が走った。 呆然とした。 主にほおを斬り付けられたのだと解ったのは、梵天丸が頭を抱えて泣き出してからだった。 謝りながら泣き叫ぶ梵天丸を抱き締めて、大丈夫だと幾度も言う。 主はひくつきながら、ごめん、と泣いた。ごめん、ごめんこじゅうろう。薄い背中をてのひらで覆い、涙で濡れた顔を 肩に押しつける。梵天丸のほおに、小十郎のほおから流れた赤がつうと伝った。 ごめんこじゅうろう。梵天丸は泣きながら言った。 でももう、なにもねえんだ。 「ははうえがぼんにくれるものは、もう、なんにもねえんだ」 だから、と言う。 だからくさってても、あぶなくても、みえなくても、おれにはこのめが。 このみぎめが。 「きり、たく」 しゃくり上げながら綴られた言葉は、途中で途切れた。 体を離してみると、梵天丸は気絶するように寝入っている。 小十郎は呆然として、それから後悔した。 後悔、などという言葉で済まされることではない。切腹しようかとも思ったが、おのれが居なくなればきっと幼い主は 自責の念で潰れてしまうであろう。焼け付くようなほおに手を当てて、血だらけの座敷のなかで小十郎は膝を突いて泣 こうとして、止めた。どうして泣けただろう。 ただ間違えたのだと思った。 何処が間違っていたのかは解らなかった。 思ったよりも肩の傷に男の重さは響いた。 きしりと傷が軋むような音がした。次いで、しのびのくぐもった笑いがこぼれる。 「言わんこっちゃない。血ぃ出てるよ。生臭ぇ」 「黙れ。気付かれたらお陀仏なんだよ」 「お互いにね。了解、黙りますよ」 山の麓までは、馬の後ろに乗せれば事足りた。 しかし此処からは背負うしかない。背負子に乗せて背負った。しのびの言うようにつめたい感触がつう、と腕と胸に伝 たが、構わずに足を踏み出す。月が出ていて、山道を照らしていた。 木々からこぼれる白いひかりは、夏だというのにうんざりするほどに冷たい色をしている。 「あんたおかしな男だね」 途中で、後ろから声がかかった。 そうかよと小十郎は短く答える。お喋りをする心地ではなかった。背負子の綱が肩に食い込んで、傷を抉っている。血 が流れすぎて膝がふるえるのが解った。山の傾斜はゆるやかだが、それでも足を高いところに伸ばそうとすると、ふら りと体が傾いた。しのびはそれには何も言わない。 一体なににそんなに一生懸命なんだよと言う声はすこし苛立っているようだった。 「まさか俺を助けたいわけじゃあないんだろう」 「関係無ェよ。どうだって良いだろう」 「いいけどね。何だか気色悪くッてさ」 「俺の問題だ。てめェは」 小十郎は立ち止まった。 背負子を下ろす。すうと軽くなった肩は、しかし抑えつけていたものがなくなったからかどくどくと血を押し上げてき てずんと重く感じられた。頭が重い。膝がふるえたが、今腰を下ろせば二度と立ち上がれぬような気がしたので、大樹 に手を付いて足を踏ん張った。 訝しげに見上げてくるしのびに小十郎はぽつりと問う。 「視界が真っ暗闇ってェのは、どんな心地がする」 しのびはすこしだけ黙った。 それから言う。随分と不便だよ。 「まぁ動けねえからどのみちおンなじだけどさ」 「不安か」 「そりゃね」 そう言ってから、しのびはすこし笑った。 肩をすくめて、それよりおれはあんたが死なないかが不安だ、と言う。 寝てねえんだろと言われて小十郎は腕に埋めていた顔をあげた。しのびは真っ直ぐ小十郎の居るほうを見ている。晒で 覆われている筈の目に、見据えられているような気がしてぞっとした。 呻いてんのが丸聞こえだとしのびは笑う。 「いつもさ、丑の刻ぐらいに飛び起きてる。こっちも寝られやしねえよ」 「―――そりゃ、悪かったな」 「そう思うンなら寝ておくれ。大体血ィ抜けて寝てなくて、冗談抜きであんた死ぬぜ」 「死なねェよ」 梵天丸が居る。 小十郎が死ねば、あの幼子は泣くだろう。 しのびはすぐにまた死ぬよと言った。あんたがどう思おうと、死ぬときは死ぬんだ。 「ただみンな勘違いしてるだけだ。てめェだけは死なないッておしあわせな夢見てらっしゃる」 ねえお侍さん。 しのびは口角をあげる。 「大抵のおひとはそうやってそのまンま永の夢に就いちまうけど、あんたもこのままだとそれと一緒だよ」 「だったら」 「うん」 「だったら、なんだ」 「困るんだよね。取り敢えず俺が治るまでは生きていてくださらないと」 こきん、と首を鳴らしてしのびはせせら笑う。 ひどく苛立たしかったが、小十郎は舌打ちをして懐の竹筒を放った。目の見えぬ男はそれを難なく折れていないほうの 腕を伸ばして掴んで、首を傾げる。 水だ、と小十郎は言った。 「飲んでおけ。まだしばらく登る」 息が荒い、と思った。 眩暈がする。確かにしのびの言うように、小十郎はろくに寝ていない。あの夜から、おなじ夢を繰り返し繰り返し見て は跳ね起きる夜が続いている。強く目を閉じて、木の幹に額を付けた。土と葉のにおいがして、すこしだけ小十郎は落 ち着いた。ほうと息を吐いて、目を開く。 しのびは竹筒を持ったまま、まだそれに口を付けずに固まっている。 「どうした」 「―――いらない」 「喉は渇くだろうが、しのびでもよ」 「渇いてない。いらないよ。あんたが飲めばいい」 竹筒が放り返される。 小十郎は首を傾げて、それでも水を口にした。染みこむようにそれは体に入っていって、すこしだけ重い体が軽くなっ たようで、小十郎は安堵する。栓をしてまた懐に仕舞い込み、背負子を背負おうと手を伸ばしたらしろい手に振り払わ れた。いらないよ、とまたしのびは言う。 小十郎は呆れて息を吐いた。 「ひとりで登れんならそれでもいいがな」 「登れるさ」 「法螺吹いてる場合か、阿呆」 強引に背負子を背負う。 背中のしのびはすこしだけ抗ったが、小十郎が呻くとぴたりとその動きを止めた。 そのまま登り出すと、おかしな男だね、とまた背中から声がした。そうかよと同じように小十郎も返す。事実ひとから 見れば小十郎の行為は奇異でしかないのだろう。おのれでも、明確にこの行為がどういう意味を持つのかはよく解らぬ。 ぽつんぽつんと、木々の葉から零れる月明かりが山道に落ちていた。それを小十郎の両の目はしっかりと見据えること が出来る。草むらのなかに、兎が眠っているのが見えた。 だけれども、小十郎は月の出ない晩のようにおのれが何処に立っているのかが覚束ない。 侍医はしのびの目は治ると言った。 晒に塞がれて、闇のなかに居る背中の男はいつかひかりを見る。 それを見れば、夜のなかから抜け出せるような気がした。 次 |