片倉小十郎はとても困っていた。 恋 に な る ま で 2 目の前ではひとつしかない目にうるうると涙を溜めた伊達政宗がぷるぷると小刻みに震えている。小十郎は政宗様、とやさしくその 名前を呼んだ。政宗は溜まった涙を流さないようにと、顔を上にあげままなんだ、と答える。 「今週だけのことです。来週は必ずお伺いいたしますよ」 「でも!いつもきてたじゃねーかよ、なんであしたはだめなんだよ!」 「先生同士の集まりがあるんです。出席しないわけにはいかない」 「こじゅうろうはおれよりほかのティーチャーとあそぶほうがだいじなのか!」 「・・・政宗様」 ぽろぽろと政宗の目から涙がこぼれだす。 それをうしろから駆けてきた長曾我部元親があーまさむねないてやがるぜーと茶化したので、政宗は涙を流したまま振り返って元親 の顎にアッパーを繰り出した。ひゅーん、と元親の体が飛んでいく。そしてべちゃ、と車に轢かれたカエルのような音を立てて床に 着地する。 小十郎はふっとんだ元親を真田幸村に預けてから、ぽんぽんと政宗の頭を撫でた。 「政宗様」 「・・・」 「もちろん政宗様のほうが大事に決まっています」 「・・・じゃあなんでおれんちにこないんだよ」 ちちうえもまってる、と政宗はつぶやいた。 小十郎は苦く笑う。 「ですから、仕事なんです」 小十郎は政宗の父、輝宗に恩がある。 両親の居ない小十郎を、大学までいかせてくれたのは父の友人である輝宗のおかげだった。そればかりかまるで家族のような付き合 いを今でも輝宗は当然のように小十郎に求めてきて、それは天涯孤独の身である小十郎にとってはなによりもありがたいことだった。 一緒に住むようにも言われたのだけれど、さすがにそこまで甘えることは小十郎も出来ない。だから金曜日だけは夕食を共にするの が、小十郎が社会人になってからの恒例となっている。 が、今週はそうもいかない。 「おつかれさまかいだとききもうした!」 たたた、と駆けてきた幸村が言う。 政宗がこくりと首をかしげた。 「おつかれさまかい?」 「うむ。いつもたいへんなせんせいたちに、おつかれさまをするのだとえんちょうせんせいが」 「そうなのか、こじゅうろう」 「・・・ええ、まあ」 正確には単なる飲み会だが。 なので本当は小十郎も行きたくない。行きたくないが、園長が主催する場なので出ないわけにも行かず、実はそもそも行かないつも りだったところ、 「あんたが行かなけりゃ、俺だけが標的になるでしょーが」 という猿飛佐助のことばに阻まれて結局行くことになった。 この場合の標的とはつまり、確実に合コンと化すであろう飲み会における女性陣の、である。恋人が飢えた獣のターゲットになって もいいのか、と佐助は言う。小十郎は思わずべつに、と返そうとしてさすがにやめた。 それは小十郎もどうかと思った。 一応、恋人なので。 政宗がすこし険しい顔で小十郎の顔を見て、 「こじゅうろう、つかれてんのか」 と言う。 幸村もおお、と今気づいたように小十郎を見た。 「かたくらせんせいはおつかれでござるか!」 「え」 「シット!おれとしたことがそんなことにもきづかねえなんて・・・ソーリー、こじゅうろう」 「たいへんでござる!かたくらせんせい、どこらへんがつかれているのでござるか?かたでござるか、こしでござるか」 「いえ、べつに」 疲れてない。 が、園児ふたりはひどく心配そうな顔でずんずんと小十郎に近づいてくる。幸村がくるりと小十郎の背後に回った。 「かたたたきするでござるよ」 そう言ってぽんぽん叩かれているのはあきらかに肩ではなく背中だった。しかも、骨のあたりなので微妙に痛い。 政宗はぐい、と小十郎の手をつかみ、 「まってろよこじゅうろう」 「は」 「おれがちちうえのあとをついだら、すぐにおまえをこのオーバーワークからたすけてやるからな。そしたらさんしょくひるねつき であげぜんすえぜんでセレブなエブリデイをおまえにプロミスするぜ!」 きらきらと言う。 小十郎は首をかしげながらも、一応頷いておいた。すると政宗は顔を真っ赤にしてたーっと走り去っていく。幸村も骨を叩くのをや めてそれを追う。ひとり残された小十郎は、よくわからないがなんとかなったと息を吐いた。 職員室に帰るとそこには佐助が居た。 ひょこりと職員机の間に見える赤い頭に、ああ俺の恋人だ、と小十郎は思った。最近佐助を見るときは常にそう思うことにしている。 要するにそうしないと小十郎はうっかりそのことを忘れてしまうのだった。 よう、と声をかけようとしてそれを止める。そしてぶ、と吹き出した。 佐助が目を細めつつ唇を尖らせる。 「・・・人の顔見ていきなり笑うとか、失礼にも程があんじゃね?」 「くくくく、すま、ん、くく」 「謝ってねーよそれ」 ぶつぶつ言いながら書類にペンを走らせる佐助の赤い髪には、白い花がちょこちょこと付いている。小十郎は謝りつつまたそれを見 て、肩をふるふると震わせた。 佐助がぎろりと睨み付ける。 「仕事してくれますかねえ、片倉くん」 「くくく、どうしたんだそれ」 「・・・ああ、これ」 仏頂面のまま佐助が髪に手をやる。 「なんかさ、うちのクラスの子たちが、疲れてるでしょ!とか言って、そんでいつきちゃんが付けてくれた」 「ほう」 「蘭丸がどっかから取ってきたらしいよ。どっからかは知らないけど」 園の花壇にはまだ花は咲いていない。 近隣のお宅から拝借してきたのだろうか。ばれなけりゃいいが、と小十郎はすこし眉をひそめる。奥様方からの抗議がいちばん怖い。 佐助はやはり頭の花を気にしながらも、そのまま書類書きを続ける。小十郎はこっそりと笑った。 なんだかんだ言ってうれしいんだろう。 「おい」 「なーにー」 「なかなか似合うぞ」 「・・・心にもないことをよくもまあ」 苦笑いを浮かべて佐助はペンを止めた。 「一個いる?つけてあげようか」 「いらん」 「似合うかもしれないのに」 「本当にそう思ってんならつけてやろうか」 「ごめん、勘弁して」 けらけら笑いながら佐助は給湯室に向かう。小十郎は自分の机についた。佐助の斜め向かい側の机である。しばらくすると佐助がふ たつコーヒーの入ったマグカップを持って戻ってくる。安いコーヒーなのでほとんど香りは漂ってこない。 「あいよ」 「悪いな」 「いえいえー政宗、説得できた?」 「ああまあ、なんとか」 なったんだろう。 なんだかよく解らなかったが。 愛されてるねえ、と佐助がコーヒーを飲みながらしみじみと言う。産まれたときからの付き合いだからな、と小十郎は応え、マグカ ップを口に運ぶ。苦いだけの黒い液体にすこし眉が寄った。 しかしめんどうだねえ、と佐助はうんざりと言う。 「飲み会とかさあ、そんなんやるくらいなら金一封でもくれっつーの」 「しかも何だかんだで結局園長は出ないらしいな」 「まーじでェ?うげええええ。だったらますます合コンじゃん。めんどくせー」 「・・・同じく、だ」 お疲れ様会という名の飲み会は、有り体に言えば年度末の忘年会のようなものだった。出なければ同僚に対して心証が悪くなる。が、 小十郎はそれすら政宗たちとの夕食会に比べれば大したことはないと思っているので今までは全てパスしてきたのだが、今回は佐助 がどうしてもと言うので仕方なくの出席である。 だから最低限つきあいだけ済ませたら、小十郎はとっとと帰るつもりだった。 「ま、おごりだから飲むだけ飲んで食うだけ食って帰ろ。土曜日の分まで食いだめしよ」 「さもしい野郎だな」 「さもしいですよ、給料日前だもん」 「あまり飲むなよ」 犠牲者がまた出たら困る、と無表情のまま小十郎は言った。佐助がコーヒーを器官に詰まらせてげほげほとむせる。むせながら、し ねーよ、と拗ねたように返してくる佐助に、ならば上々、と小十郎はすこし笑った。 小十郎はあまり飲みすぎるなよ、と言った。 一ヶ月前のことを引き合いに出して、また同じようなことをするなよ、と言った。 そうしたら佐助は答えたはずだ。 しねーよ、と。 小十郎は天井を見上げながらぼんやりと前日のことを思い出していた。 確かに佐助は言った、と思ってから急に怒りが上ってくる。じゃあ一体なんなんだこの状況は。 「・・・おい」 小十郎は佐助に低く呼びかける。 佐助はなに、と答えた。小十郎の体の上から。もっと言うならソファの上の小十郎に覆いかぶさりながら。 簡単に言えばふたりは一ヶ月前のあの夜とまったく同じ体勢になっている。 「なんのつもりだてめェ」 小十郎は眉間に皺を寄せる。 が、そのあとですこし思った。もしかしたらこれはとても普通のことなのだろうか。所謂「恋人」を部屋に入れて、こういう状況を 予想していなかった小十郎のほうが間抜けなのだろうか。しかしこの一ヶ月の間、そんな素振りをひとつも見せなかったくせに佐助 はそういう行為を望んでいたのか。 (物好きな) 押し倒されたくせに小十郎は淡々と思った。 淡々と思ったのは、とりあえずこの後どうするのかということだった。このままだと小十郎がやはり下なのだろうか。それは出来れ ば遠慮したいのだが、だからといって小十郎には一切佐助を抱きたいというきもちはなかった。このあいだの朝のあれは苛立ちと勢 いとついでに言うなら朝の生理現象のなせる行為だったので、今現在小十郎にその気は一ミリだってない。 やられるのも嫌だがやりたくもない。 小十郎がどうしたものかと天井を眺めていたら、佐助がはあと息を吐いた。要するにため息というやつを吐いた。視線を戻すと、佐 助の顔はひどく沈んでいる。とてもではないがこれから人を襲おうという人間の顔ではない。 「どうした」 「・・・どうしたいかわかんなくて、どうしよう」 「あァ?」 「やっぱ恋人だからこーいうことしないとまずいかと思うんで、ちょっと押し倒してみたんだけど」 佐助のことばは淀みない。 酔っていないのだ。騙されたな、と小十郎は思った。飲み会の後、酔ったから家に帰れないと言われて小十郎は佐助を連れてきたの だ。が、この間の夜の様子から見るとあきらかに今日の佐助は素面である。 素面の佐助は小十郎に覆いかぶさりながらまたため息をつく。 「やられるのは嫌なんだよねえ」 「こっちの台詞だ」 「でもねえ」 やりたくもないんだよねえ。 佐助がしみじみと言うので、小十郎は思わず笑ってしまった。あまりにお互いの思考が一致していたのがおかしい。奇遇だな、と小 十郎は体を起こしつつ言う。佐助もおとなしく小十郎の体の上からどいた。 借りてきた猫のようにおとなしくなっている佐助に、小十郎は息を吐きつつ、言った。 「俺もだ」 佐助は目をぱちくりと瞬かせる。 それからぷ、と笑う。小十郎もくつくつと笑った。ひどく滑稽だ。 笑いながら佐助はなんかさあ、と言う。 「意味」 「あ?」 「意味、なくね?」 付き合ってる。 「あんた俺抱く気ないんでしょ」 「一ミリもねェ」 「俺もないんだよ。一ミクロもねーですよ、正直」 「そうか」 「で、さ」 くい、と佐助の顔が小十郎の顔に近づく。 目の前の赤い目を見ながら、小十郎はこれはなんだろうと思った。たぶんこれは、キスだろう。 避けるか否かを考えていたら、そのまえにちゅ、と音を立てて佐助の唇が重なってきた。 佐助の唇はやわらかい。 一月前も思ったけれど、男のくせに手入れをしているのだろうか。気色悪いな、と小十郎はやわやわと厚い唇を感じながら思った。 佐助は目を閉じていない。小十郎も閉じていない。なのでふたりは唇を重ねながら、ものすごい至近距離でおたがいを凝視しあう体 勢になっている。かすかにさっき飲んだビールの匂いがする。 佐助の唇が離れた。 小十郎はちいさく息を吐く。 「どうよ」 佐助は言う。 小十郎は首を傾げた。 「どうってなにが」 「今の」 「キスだろう」 「そんなん知ってるっつーの。そうじゃなくてさあ」 どきどきした、と佐助は聞いてくる。 小十郎は黙った。 それから阿呆か、と言いながら佐助の頭をぺしりと叩く。 「するか」 中身入ってんのか、と言いながら赤い頭をぐらぐらと揺すった。 佐助が痛い痛いとわめきながら小十郎の手を振り払う。小十郎を恨めしげに睨み付けながら、やっぱかあ、と言う。ということは佐 助もそうなのだろう。まあ。小十郎は思う。まあそりゃあそうだろう。 佐助も小十郎も今まで女に不便を感じたことはなく、健全かつノーマルな嗜好の人生を歩んできた。今ここに来て唐突に男にときめ くことがあったら、小十郎だったらまず病院に行く。神経内科で看てもらって、それでも駄目ならその原因を視界から消す。 佐助はまだ消えていない。 つまり小十郎は佐助にときめいたことなんて一度だってない。 「こう、なんかさ、園児と手繋ぐ感じと変わんないんだよね」 「皮膚と皮膚の接触という意味なら正にその通りだな」 「そんな恋人ってねぇじゃん」 「おまえ随分と直情的な付き合いをしてきたんだな」 「だって俺男の子だもん。えっちすきだもん。片倉さんだってそーでしょ」 「男だからな」 それなりにはセックスだって大事だ。 佐助ほどそのことについて拘ろうとも思わないけれど。 佐助は更に続ける。だったらなんの為に付き合ってるのか。小十郎はすこし黙った。なんでだったか思い出すのにしばらく時間がか かって、ああ、と思い出す。責任だった。 小十郎は佐助に聞いた。おまえ別れたいのか。佐助が眉を八の字にして唸る。 「うーん」 「煮え切らねェ野郎だな」 「だって別になんかあんたに不満があるわけじゃねーし。ただ勃たないだけで」 「不満だろう、それが」 「なんかそんな理由で別れるとかどんだけ獣だよって感じがして、イヤ」 ぷうと頬を膨らませる佐助に小十郎は息を吐く。 またぺしりとその頭を叩いた。ちなみに一月前の佐助はただしく獣だった。もう忘れてるらしい。 頭を押さえながら呻く佐助に小十郎は言う。 「俺は」 「へ」 「俺は、構わんぞ。どちらでも」 「どちらでもって」 「別れてもこのまま続けても」 そもそも自分には選択肢はない、と小十郎は思っている。 一月前のあの行為は、佐助は酔った勢いでだったが小十郎ははっきりと素面だった。佐助はそのことを覚えてすらいなかったわけで それは非常に腹立たしいけれども、小十郎がすこし耐えればよかったのだ。もしくは殴るとか蹴るとか、そういうふうに復讐しても 良かったわけで、大人げなく同じ行為を佐助にしてしまったことを小十郎は後悔している。 素面であった分、小十郎と佐助は対等ではない。 「おまえが良い方を選べばいい」 だから佐助がいいなら、別に小十郎はどうだっていいのだ。 続けたいとも思わないし、続くのが嫌だとも思わない。さっきのキスだって胸の高鳴りなど覚えないけれど嫌悪感もない。抱く気は ないが佐助が抱かれたいなら抱いたっていい。たぶんそれを小十郎は出来るだろう。抱かれるのは今のところ考えたくないが。 小十郎のことばに、佐助はしばらく黙り込む。 それから、どうしてそんなに俺に甘いの、と言った。 小十郎はさっきまで考えていたことを言う。佐助はまた黙った。静かな室内に、暖房器具の音だけが響く。佐助の居る位置はちょう どヒーターの風が直で当たる場所で、そのせいかしろい頬がうっすらと赤らんでいる。 黙っていた佐助がぽつりと言う。 「どうでもいいんだ」 「ああ」 「うん、まあ、俺もそうなんだけど」 人に言われるとちょっとショック。 そう言う佐助に小十郎は首を傾げる。よくわからない。そういう小十郎の表情に、佐助はちらりと笑った。 笑いながら、もういいや、と言う。 「別れますか。そのほうがすっきりするし」 「そうか」 「うん。なんかねえ、色々考えちゃってここ一週間俺様ちょうお疲れ」 「色々?」 「色々」 「なんだそりゃ」 「ひみつ」 もう関係ないでしょ、と佐助は言う。 小十郎はすこし考えて、そうだな、と返した。 既に終電は出ていたので、佐助はそのまま小十郎のマンションに泊まることになった。ソファで寝る、と佐助は言う。なので小十郎 は寝間着と布団を手渡して、それじゃあな、と寝室に向かう。そのときに後ろで佐助がぽつり、と、 「映画見れねーな」 と言うのが聞こえた。 小十郎はそれに応えるかどうかすこし迷って、結局何も言わずにリビングのドアを閉めた。 次 |