最近元気がありませんね、と言われた。 片倉小十郎は首をかしげる。疲れてるのか、とさらに問われて、それは疲れていると言えば常に過剰労働をしているのでいつだって 疲れてはいるけれど、最近特に疲れているとかそういうことはない。だから別に、と答えた。 「そんなふうに見えますか」 「ええ・・・片倉先生に私たちいつも頼りすぎていますから心配で」 同僚の女性はそう言いつつ笑う。 だったらおまえも残業しろよと小十郎は思いながらにこりと笑う。いえお気になさらず。同僚はまた微笑んだ。さすが片倉先生。な にがさすがなのか小十郎にはよく解らない。ただ役に立たない残業相手は居ないほうがいいのでやはり何も言わずにやりすごす。 いまのところ、役に立つのがひとり居るのでそれで事足りている。 「そういえば」 会話が終わったので早々にりんご組へと向かおうとする小十郎に、女性保育士はあわててことばを繋げる。もう既にクラスへと向か わなくてはいけない時間であり、小十郎は多少顔を険しくしつつなにか、と応える。 すこし怖気づいたらしい同僚は、それでもくじけずに、 「猿飛先生も最近元気ないですよね」 と笑った。 そこで、小十郎は最近あの男の笑った顔を見ていないことに気づいた。 恋 に な る ま で 4 「疲れてるのか」 そう言われて。小十郎は苦く笑った。 かたん、とテーブルに湯飲みを置き、急須から茶を注ぐ。伊達輝宗はすこし頭を下げてそれを口へと運んだ。小十郎も椅子に座り、 自分の湯飲みにおなじように茶を注ぐ。金曜日の夜だ。政宗はすでに眠っていて、リビングには小十郎と輝宗しかいない。 「今日同僚にも言われましたよ。そんなに情けない顔をさらしていますか」 「うん、そうだな。いつもより三割り増しで顔が怖い」 「・・・それは酷いことを仰る」 小十郎が眉を寄せると、輝宗は豪快に笑う。 「ただでさえ堅気にゃ見えない面してるんだから、気をつけないとそのうち逮捕されるぞ」 「俺の顔は犯罪ですか」 「逮捕されて職を失ったら俺の組で拾ってやろう」 「遠慮させて頂きます」 「勿体無いなあ」 眉を下げる輝宗にくすりと小十郎は笑う。 輝宗もまた笑いながら、そういえば、と思い出したかのようにことばを発した。小十郎はまた笑う。それが本題なことは解りきって いた。 「・・・政宗は、大丈夫だったかな?」 「ええ。大分ごねましたが、最後には納得してくれたようです」 強い子だ、と小十郎が言うと輝胸はうっとりと笑う。 「そりゃあ俺に似たんだろう」 「義姐さんのほうに似たのかと」 「・・・おまえ言うようになったな」 「なんとでも。とにかく納得してくれましたよ。出発する前でよかった。まさか言っていないなんて思いもしない」 「言いづらいじゃないか」 「だからと言ってこんな直前まで隠すことはないでしょう。危うく俺は政宗様に一生恨まれるところだった」 「それはないだろう。あいつはおまえを嫁にするつもりなんだぞ」 「俺は男ですが」 「うん。俺は理解があるからいつでも嫁に来るといい。歓迎しよう」 小十郎は首をかしげる。どうもこの親子にはたまについていけない。 輝宗が湯飲みをテーブルに置いた。すでに空になっていたそれに、小十郎はふたたび茶を注ぐ。とくとくと注がれる若草色の液体を 見ながら、輝宗はぽつりとさみしいだろう、と言った。 小十郎はまた苦々しく笑いつつ、 「そうですね」 と応える。 「俺に会えなくなる」 「はい」 「さみしかったらいつでも電話してこいよ」 「有難いおことばです」 頭を下げると、輝宗がぽんぽんと小十郎のそこを撫でた。 おまえは息子同然だからな、と言われてどういう顔をしていいか解らず、小十郎はそのまま顔を上げずにテーブルの木目を凝視する 。輝宗はそんな小十郎の所作を解りきっているかのように、いいこだなあと殊更に子ども扱いして笑った。 そして言う。 「沖縄は遠いなあ」 小十郎はやはり頭を下げたまま、そうですね、とだけ言った。 やはり佐助は笑わない。 職員室の斜め前に座っている佐助を見ながら小十郎は思った。園児たちの前ではいつものように笑っているが、こうやって園児が居 なくなると途端に疲れたような顔になっている。それでも他の同僚たちの前では笑顔を作っているが、小十郎の前に来るとまるで能 面だ。いやがらせだろうか。 だとしたらなんと地味な。 いつものように残業で、七時過ぎの職員室には小十郎と佐助しか居ない。 「おい」 かたかたとキーボードを打ちつつ小十郎は佐助に話しかける。 佐助は書類から顔を上げずに、なに、と応えた。かつかつとペンが机に当たる音がする。小十郎もパソコンの画面に目線を合わせた まま、おまえ最近笑わないな、と言った。かつかつ、かつん。 ペンの音が止まった。 「あんた何言ってんの」 うんざりした声がする。 小十郎は顔をあげた。佐助がこちらを見ている。声に負けず劣らず、ひどく嫌そうな顔だった。 キーボードを打つ手を休めて小十郎は考えた。はてなにか自分は気に障るようなことを言っただろうか。あくまで客観的事実をあり のままに口に出しただけのつもりだったのだが、目の前の同僚の顔には大きく不愉快だと書いてある。そしてどこかこちらを馬鹿に しているようないろも見える。こっちが不愉快だ。 「馬鹿じゃないの」 佐助は言った。 「意味わかんねー」 「馬鹿たァなんだ馬鹿たァ」 「馬鹿だから馬鹿だって言ってんだよ。俺が?笑わない?だからなに?」 「別にだからどうなんざ言ってないだろうが」 「じゃーどーでもいいじゃん。余計なこと話しかけないでくれっかな」 いつもは自分のほうが無駄話をする佐助がそんなことを言う。 小十郎はますます不愉快になった。 データを保存してノートパソコンを閉じる。すこし乱暴に閉じたのでがちゃんと職員机の上のマグカップが揺れる。帰るのかと佐助 が聞いてくるのを無視してパソコンを鞄にしまい込んだ。家に仕事は持ち帰らない主義だが、これ以上この不愉快な空間に居るつも りはない。苛立たしさのままがたがたと音を立てながら帰り支度をして、コートを取りにロッカーへ向かう。 黒いトレンチコートを取ろうとしたら、横にかけてある佐助の白いモッズコートが引っかかってきて更に小十郎を苛立たせる。力ま かせに引っ張ったら佐助のコートが落ちた。すこしそれに目を落とし、小十郎はそのまま自分のコートをはおる。 職員室に戻ったらすでに佐助はそこに居なかった。 鞄を掴んで小十郎は外に出る。風が冷たかった。ぶるりと体が震える。 革の手袋をつけようと鞄を探って、小十郎は舌打ちをする。職員机の引き出しに入れっぱなしにしていたのを今更のように思い出し た。戻るかそのまま帰るかすこし考え、小十郎は結局踵を返し、 かちんと固まった。 「わすれもの」 ほら、と黒革の手袋が差し出される。 小十郎はそれを受け取ることはせず、ただ睨み付ける。苦笑いの声がした。 顔をあげると白いコートをまとった佐助が困ったように笑っている。 「そんな親の仇を見るよーな目で見なくても」 「・・・どの面さげて追いかけてきやがった」 「どの面もあの面も、俺には産まれたときからこの面しかございませんよ」 肩を竦めながらまた手袋を差し出す。 小十郎は黙ってそれを受け取った。指先がかすかにかじかんで、やせ我慢をするのもあほらしい。てのひらの上から手袋がなくなる と、それまでへんに歪んだ顔をしていた佐助の顔から力が抜けた。次いで笑う。よかった。へらりと情けない顔でそう言う佐助に、 小十郎は眉をひそめる。 「なにが」 「受け取ってくれて」 「そりゃ俺の手袋だ」 「そうだけど、いや、そーじゃなくてさ」 両手をポケットに突っ込んだまま、佐助は前のめりになる。 その動作の意味が分からず小十郎が首を傾げていると、ごめん、と佐助が言った。そこでようやく小十郎は今の佐助の姿勢が頭を下 げるとかそういう種類の動作なのだと知る。ごめんね、という佐助の声は寒さですこしかすれていた。 「苛々したの、あんたにぶつけちゃった」 「いい迷惑だ」 「うん。ほんとだねえ」 「なんかあったのか」 佐助は大抵のことを受け流す人間だ。 それが人に八つ当たりするほど苛立つなど、よほどのことだろうと小十郎は思った。 佐助はすこし黙る。黙ってそれから、 「・・・なんも?」 と笑った。 小十郎はその顔を見ながら、ふつふつと腹の内側のほうになにかが溜まるのを感じた。手をやってみた。もちろんなにもない。 突然腹に手を当てて黙り込んだ小十郎を、佐助は不思議そうに覗き込む。ぱちくりと瞬かれる赤い目がますます小十郎の腹のあたり を変なもので満たそうとする。腹でも下したかと思う。 だとしたら佐助の顔はたぶん下剤かなんかだろう。 見れば見るほど腹の具合によろしくない。 (この顔が悪いのか) 小十郎は拳ふたつぶん低い場所にある佐助の顔を、ためしに手で掴んでみた。 「ぁう」 変な音が佐助の口からもれる。 小十郎はそのままそれを左右に引っ張った。むに、と思いの外よく伸びた佐助のほおを伸ばしたり縮めたりしていたら、ほおの持ち 主が暴れ出す。。ぱ、と手を離した。ぴょん、と佐助の顔が元に戻る。 真っ赤になったほおを両手で押さえつつ、佐助が吼える。 「なにすんのさ!」 睨み付けてくる佐助に、しかし小十郎は平然と言う。おまえが変な顔してっからだ。 その応えにますます顔を不満げないろに染めつつ、佐助はこれでちゃらね、とどこか安心したように吐き捨てる。小十郎は頷いた。 小十郎もすこし安心していた。佐助の顔が元に戻っている。 溜まっていたなにかも何処かへいってしまった。 「おい」 「なによ」 「その方がいくらかマシだぞ」 「はあ?」 「最近の不細工面よりは、今の方がいくらかいい」 「ぶさいくぅ?ちょ、この俺のベビーフェイスを捕まえてあんたなんてことを」 「ただの童顔の間違いだろ」 「うるせーよ、老けてるよりはそのほうがいいですよーだ」 「老けてねえ」 「老けてるよ」 佐助は小十郎のすこし前を歩いている。 歩きながら佐助は言った。しかも特に。信号で佐助の足が止まる。最近さ。 小十郎の肩が佐助の肩に並んだ。ちらりと下を見る。佐助も小十郎のほうを見ていた。にやりと佐助が笑う。 「あんたの凶悪面三割り増し」 「・・・あァ?」 「まじそのうち逮捕されちゃうぜ?つーか餓鬼どもと歩いてたら補導されちゃうんじゃないの」 「その三割り増しってなァ、どこ比だ。この間も言われた」 「ほんと?じゃあこりゃ客観的データだねえ。 でも補導されたら引き取りにいってあげるから安心して。いやん、俺様ったらやっさしー」 「あぁ」 頼むぞ、と言いながら赤い頭を叩く。 拳で叩いたので佐助はそのまま蹲った。信号が青になったので小十郎は佐助を置いてそのまま歩き出す。すこしして後ろからかつか つと駆け寄ってくる音がした。佐助はブーツを履いているので、アスファルトとそれがぶつかって音を立てる。 左斜め後ろでふわふわ揺れている赤い髪を一瞥して、小十郎はまた前を向く。小十郎が自分の歩幅で歩くと、佐助にはすこしそれが 大きいらしく、後ろの足音はすこし小走りになっている。 小十郎は歩幅を変えるなど思いもせずに、後ろの佐助に呼びかける。 「おまえ」 「うん?」 「なんで機嫌悪かったんだ」 「・・・だから、なんもないってば」 「人を不愉快にさせといてそんな言い訳が通用すると思うな」 凄むと、こわっ、という佐助の笑いを含んだ声が後ろからする。 横断歩道を渡り終えて、小十郎は足を止めた。佐助はこのまま駅へ向かうが、小十郎はこの先の駐車場に置いてあるバイクで家まで 帰る。佐助はそのまま駅の方向へと逃げだそうとしていたらしいが、小十郎の無言の圧力に屈して結局足を止めた。 苦く笑いながら、でもね、と佐助は言う。ほんとにね、ないんだ。苛々の理由。 小十郎は首を傾げる。なにもないのに感情を乱されるなどということがあるのだろうか。元よりそのような性質を持っている人間な らともかく、短くはないつきあいで猿飛佐助という男がその類ではないことを小十郎はよく知っている。 納得しない小十郎に、佐助が逆に聞いてきた。あんたは。 「あんたはどうして最近元気なかったの」 小十郎は目を瞬かせる。 それから女性保育士と輝宗のことばを思い出した。ないか、と呟くと佐助がなかったよ、と返す。首を傾げる。すこしも思いあたる ことなどないが、三人に言われたということは確かに自分は沈んでいたのかもしれない。 その事実すら気づかなかったのだから、理由など知るよしもない。 (ああ) が、小十郎は思った。 思ったら、すとん、とそれは胸の中に落っこちてきてひどく小十郎を納得させた。 なので、言った。 目の前の佐助が小十郎を見上げる。視界の端の信号は、青からまた赤に変わっていた。 俺は、と小十郎は言う。 小十郎は。 おまえが笑わねェから気持ち悪かった、と言った。 車が走り抜けていく。 佐助はほうけたような顔をしている。小十郎はそれを眺めながら、事によると今自分はとても恥ずかしいことを言ったかなと思いあ たった。が、特に小十郎は後悔などをすることはなかった。口に出して言ったら、それはやはりとても小十郎を納得させた。佐助は たっぷり信号機の色が一巡するまでほうけて、それからまた馬鹿じゃないの、と言う。今度は小十郎はそれを不愉快には思わなかっ た。笑ってしまうほど目の前の佐助はおかしな顔をしていた。 泣きそうなのに笑ってる、奇妙な顔で佐助が小十郎を見ている。 「意味わかんね」 「そうか」 俺もわからん、と答えておいた。 佐助は顔を笑みに歪めて、なにそれ、と言ったがその顔はとても笑顔などと言えるようなものではなかった。変な顔だなと小十郎は 思う。もともとくるくると表情を変える男だけれど、こんなびっくり箱を開けたしゅんかんを常に維持するような器用な顔もあるの だと半ば感心すらした。 佐助はそのびっくり箱の顔のまま、あんたって、とうんざりした声で言う。あんたってほんとに心臓に悪い。 心臓が悪かったのかと聞いたら馬鹿と言われた。うんざりとした、心底から嫌そうな声だった。 「俺ばっかこんなんで癪だな」 不満げに佐助は言う。 小十郎には「こんなん」が「どんなん」かよく解らなかった。 それを聞こうと小十郎が口を開きかける。が、その口から問いが出ることはなかった。そのまえに佐助が小十郎の腕を思い切り引っ 張ったせいで、小十郎の体のバランスは大きく崩れた。足を踏ん張って上半身を支える。 ふと見ると目の前に佐助の顔があった。 赤い目がひどく近い。 目を合わせたまま、佐助がねえ片倉さん、と小十郎を呼んだ。 「どきどきしてるでしょ」 小十郎は眉を寄せる。 それから言った。そりゃあな。 「いきなり腕引っ張られりゃあ心臓も跳ねるだろう」 「そうだろうね」 「おまえ、なにがしたい?」 小十郎のことばに、佐助はうっすらと笑う。なにも、と言う。 心臓が鳴っている。いきなり体のバランスが崩れたせいで、背筋にもすこし震えがいった。佐助はそれを満足げな顔で見ている。よ く、したいことがわからなかった。腕が痛い。佐助は異様のほど強く小十郎の腕を握っている。 離せ、と言ったらあっさりと佐助は小十郎の腕を解放した。 そして言う。 「だから、もういきなり変なこと言わないでもらえるかな」 佐助はそれだけ言って、それじゃあね、と駅に向かって歩き出す。 小十郎は白いコートが風になびくのを見ながら、へんなこと、と呟く。どれのことだ。今日の佐助は変だ、と思った。怒るし嘘をつ くししたいことがなんなのかさっぱり解らない。まるで躁と鬱をひとりで抱え込んでいるようだ。難儀な。 佐助が角を曲がったので、白いコートが見えなくなる。 その角を十秒ほど眺めてから、ひとつ息を吐いて小十郎も駐車場へと歩き出した。 次 |