もう諦めて認めるしかないかもしれない、と電車のガラス窓に映る自分を見ながら思った。
額をひっつけるとガラスはひんやり冷たくて、佐助は目を閉じてただがたんがたんという振動を感じる。





















 
                  恋 に な る ま で  5





















佐助は仁王立ちする目の前の白いふわふわを困り切った目で見下ろした。
いちご組の竹中半兵衛は、腕組みをしながらその大きな目を細めて言い放つ。だいたいおかしいとおもわないかいさるとびくん。

「猿飛君、じゃないでしょー竹中君。俺はね、先生なんだよ?」
「そんなことはどうでもいいことだ。だいじなのはね、どうしてこのじきにうみにいくのかってことさ」
「恒例行事でしょ?もう三回目じゃん」

BASARA幼稚園には二月に海へ行く行事がある。
さすがに海に入ったりはしないが、浜辺で一キロをマラソンするという園長発案の体を鍛える一連の行事の一環である。賛否両論だ
が、BASARA幼稚園のコンセプトは「強く逞しい人間を育てる」なので、基本的に否定は許されない。園児はもちろん、保育士
もそれは同様である。佐助だって二月に海など行きたくない。水着の女の子も熱い太陽もない海なんて海である意味がひとかけらも
ないではないか。
だがこの場所でそれを言えば園長からの鉄拳が飛んでくる。佐助はにこりと笑った。
眼下の白いふわふわを撫でる。

「竹中君」
「なんだい」
「お市先生がね、当日はなんか事情があって行けないらしいよ」

だからいちご組の引率は副園長先生がするんだよ、と言うときらきらと半兵衛の顔が輝き出す。うわ、と佐助は笑顔を浮かべながら
思った。こいつほっぺ赤らめてるよきもちわる。

「そ、それはほんとうだろうね、さるとびくん!」
「先生って言えっつってんだろーが。ほんとだよ。海だからねー去年幸村君は園長先生と浜辺で夕日を追いかけてたなあ」
「・・・!」
「竹中君も、やってもらえば?」

佐助は微笑む。
満面の笑顔でいちご組に走り去っていく白い頭を見ながら、目を細める。ああいうところは幼稚園児らしいのだが、他があまりにも
幼稚園児らしくないのでそれすら単純にきもちわるい感じがする。不思議だ。
ぽてぽて歩きつつさくらんぼ組に戻ると、前田慶次がひょいひょいと佐助を手で招いている。はてなと首を傾げ、近づいていくとぐ
いぐいと電子ピアノの影に引っ張られた。
慶次がしゃがむので、佐助も合わせてしゃがみこんだ。

「さるとびせんせい」
「なになに、どしたの」
「おれでよければ、そうだんにのったげるよ」
「相談?」

首を傾げる佐助に、慶次はにっこりと笑う。
そして言った。せんせい、こいしてるだろ。ぶ、と佐助は吹く。

「なななななななな」
「あ、やっぱり」
「なあーに言っちゃってんのお?」
「もろばれだぜ!こいのエキスパートのおれからみれば!ほらほらーいってみなってーなんでもそうだんのるからさー」

ぱんぱんと背中を叩かれる。
げほげほとその圧迫に耐えながら、佐助は内心の動揺を必死に押し隠した。慶次はそんな佐助を見ながらさらに笑みを深くして、相
手は誰だと聞いてくる。

「うちのようちえんのせんせいのだれか?」
「ちょ、待った待った。まだ俺なんも言ってねーし」
「そんなまるわかりのくせになにいっちゃってんの!もうさーみとめちゃえよー。
 おんなのこならともかく、おとこがうだうだしてたって、かわいくもなんともねーんだからさー」
「馬鹿、俺なら可愛いよ」
「かわいくないよかたくらせんせいならかわいいけど」

さらりと慶次は言う。
佐助は嫌そうに眉を寄せた。
小十郎が可愛いだなんて、この園児の将来は大丈夫だろうか。主に目とか頭とかそこらへんに異常があるのではなかろうか。

「あの男のどこがかわいいんだよ訳わからない」
「かわいいじゃん。やさしいし。あんなにかおこわいのに、かたくらせんせいかだんにぼーるはいるといちばんおこるんだよ。はな
 にはいのちがあってね、それをね、だいじにしないとだめだっていうんだよ!」

きらきらと言う慶次に佐助は目を細めた。
あの男野菜だけでなく花まですきなのか。いやそんなことはどうでもいい。佐助は慶次のぴょんぴょん跳ねているポニーテールを掴
んでぐいぐい引っ張る。痛い痛いとわめく慶次をそのまま放置して、立ち上がった佐助はふらふらと電子ピアノに寄りかかった。
ピアノの上にある楽譜をぱらりと開く。佐助のクラスのそれは真っ白だ。書き込みはない。びっしりと書き込まれた小十郎のクラス
の楽譜を思い出す。音楽会は二ヶ月後だ。

(それまではこっちに居るのかな)

海には行くのだろう。
小十郎と佐助は、またもや下見にふたりで行くことになっている。

























二月の海は寒い。
遮るもののない浜辺で、佐助はぶるりと身を震わせた。周りを見渡す。浜辺が延々と続いていて、他にはなにも見えない。冬なので
海の家すらない。ジャンパーのファーの部分に首を埋めて、佐助はくるりと振り返った。
浜辺の脇にワゴン車が一台止まっている。

「片倉さん、あんたいつまでそこに引っ込んでるつもり」

目を細めつつ、呼びかける。
幼稚園のワゴン車の運転席に座っている小十郎が、こんこんと窓を叩いた。そして手でひょいひょいと佐助を招く。佐助が近寄って
いくと、小十郎が窓越しに、

「もういいだろう」

と言う。

「あんた一歩も出ずに仕事終わらせるつもりかよ」
「寒ィんだよ。いいだろう、おまえが見れば」

下見といっても毎年のことだ。
そう毎年なにか変化があるわけでもない。それでも一応は外に出てマラソンのルートの確認くらいはするべきであろう。仕事なのだ
から。そう言うと小十郎はひどく不快げに顔を歪ませたが、しぶしぶ車のドアを開けた。ダウンジャケットは暖かそうで、二月とは
いえ暖冬なのだから十分な防寒着に佐助には見える。が、小十郎は不満げな顔で呟く。

「・・・手袋忘れた」
「しらねーよ」
「てめェのを寄越せ」
「やーなこった」

切り捨てると小十郎は舌打ちをした。
手袋を見せつけるようにひらひらと小十郎の前で揺らすと、鬼のような顔をして小十郎はそれをひっつかみ、海に投げた。ぎゃーと
叫ぶ佐助を置き去りにしてそのまま小十郎は浜辺を早足で進んでいく。びしょびしょになった手袋を回収した佐助は後ろから思い切
り罵倒するがグレイのダウンジャケットはすこしも振り返らない。歩みを止めさえしない。
佐助は叫ぶ。

「鬼!馬鹿!ひとでなしー!!!」
「うるせェ」
「俺のてぶくろがあああああ」
「俺が持ってねェのにてめェが持ってるなんぞ許されるか」
「なにそれ!あんたジャイアンか!俺のものは俺のもの、おまえのものも俺のものか!」
「黙れ。そして歩け」

小十郎はすこしも悪いと思っていない口調で言う。
佐助は涙を浮かべつつ、磯臭い手袋をビニール袋にしまって小十郎の背中を睨み付けた。もちろん小十郎は佐助の為に振り返ること
もしないし、立ち止まったりもしない。小十郎にとって佐助はそのような気遣いを見せるべき相手ではなく、それはこれからも変わ
ることはないだろう。

(つーか、これからがないのか、もう)

前を歩く広い背中を見ながら、佐助はぼんやりと思う。

来年の海への下見を小十郎と来ることはないだろう。次に遠足があるのは五月だけれど、その下見はどうだろうか。その頃にはもう
居ないかもしれない。片倉さん、と呼びかけるとなんだ、と振り返らない小十郎が応える。沖縄ってどっちかな、と聞いたらさくり
と小十郎の足が止まった。振り返った同僚は首を傾げつつ、なんで、と言う。
小十郎の返事は短い。
必要最低限で、そこには一切の無駄がない。
佐助は基本的に、会話は無駄を楽しむものだろうと思っているので、小十郎と話していると時折ひどくむなしくなる。小十郎は佐助
の冗談をかわし、無視し、ひどいときには気づきもしない。
小十郎は、とてもとてもやさしくない。泣けるほどにすこしもやさしくない。
そのやさしくない同僚は、やはり不思議そうな顔をしながら、海に向けて指を指し示す。
 
「大体あっちじゃねェか」
「へえ」
「いきなりなんだ」
「行くんでしょ」
「あァ?」
「おきなわ」
 
政宗とのはなし聞いちゃった、と言えば小十郎はああと納得する。ひどいな、と佐助は笑った。言ってくれてもいいのに。
小十郎は不思議そうに首をかしげた。
 
「何故」
「なんでって?」
「何故おまえに言う必要がある」
 
本当にわからない、という顔だった。
佐助はへらりと笑った。そうでもしなくては泣いてしまいそうだ。なんてひどい男だろう、と思ったけれど、よく考えてみたら佐助
はただの同僚で、小十郎にとってはその程度の知人ですらないのかもしれない。さみしいな、と佐助はちいさく呟いた。ただそれは
あんまりちいさかったので、波の寄せてくる音に紛れて小十郎の耳には届かなかった。
小十郎は夕日に目を細めながら海を見ている。
おきなわはとおいね、と佐助が言うと、苦く笑う。
 
「そうだな」
「政宗とか、さみしがるだろーね」
「ああ・・・見てるだけでこっちが痛いような顔をなさる。が、強い子だからな。我慢するさ。それに小学校にあがるまでには帰っ
 てこれるだろう」
「じゃあ二年くらいなの。あっちに行ってるのは」
 
早くてな、と小十郎は言う。
ふうんと鼻を鳴らしながら、佐助は更に聞いた。いつ。小十郎の真っ黒い目が佐助を見据える。いやだなあ、と佐助はすこし笑った。
いやだなあ、なんか考えていることが全部わかっちゃいそうじゃないか。
いついくの、と聞いたら小十郎はひとつきご、と答える。見送りに行ってもいい、と尋ねたら笑われた。来てどうする、と言う。佐
助も笑った。そうだねえ。
 
「俺が行っても、どーしよーもねーですね」
 
どうしようもない。
どうしようもなく、そのことばは痛かった。


 
 
 
泣けるなら泣いてしまいたかったが、佐助は大人で男なので、涙はついぞ出てこない。
 
 

 
 
いいなあ、と佐助は言った。俺も政宗みたいに泣けたらいいのになあそしたら片倉さん俺を慰めてくれるのになあ。そう言ったら小
十郎は呆れて、なにを阿呆なことを言ってやがる、と佐助の頭を小突いた。中身が無くなるからやめて、とおどけながら、こうやっ
て殴られることももう無くなるのだと思ったらひりひりするその頭の痛みさえ、消えてしまうのが惜しいような気がした。
マラソンのルート確認はすぐに終わってしまった。
することがなくなると、帰るしかない。


冷たい風に吹かれながらも、佐助は帰りたくないなあと思う。
 

帰りにワゴン車を幼稚園まで返して、いつもの交差点まで佐助と小十郎は連れ立って歩く。
さあここでおわかれかと佐助が立ち止まったら、小十郎は立ち止まらずにそのまま駅の方へと歩みを進めている。え、と佐助が声を
漏らせば、小十郎はやはり歩みを止めないで、バイク忘れた、と言う。バイクって忘れるものだろうか。
駆け寄ってにやにやと佐助は笑う。
 
「らしくもなくおばかさんなことするね」
「下見の後ワゴン車で家帰りゃいいと思ってたんだよ」
「あーらら」
 
帰りの車のなかで小十郎はすやすやと寝ていた。
片倉さんがあほだーと笑いながら、佐助はどうしよう、と思った。駅までの距離は歩いて十分。佐助と小十郎が同じ車両に居る時間
は十五分。待ち時間も合わせたら三十分だ。
さんじゅっぷん。
いちじかんのにぶんのいち。
 
(浮かれすぎ、俺)
 
これはなんというのだろう。
小十郎のことを、例えば性の対象として見るかと問われれば佐助はやはり首を横に振る。そんな気は起きない。抱きたくないのも抱
かれたくないのも以前と変わらない。ただ、不愉快だった。小十郎が佐助に沖縄行きのことを言わないのも、それを当然だと思って
いるのも、不愉快で、さみしくて、苦しかった。そして、三十分だろうとなんだろうと、一緒に居る時間が長くなるのは笑ってしま
うほど佐助を浮かれさせている。
プラットフォームで電車を待ちながら、風が吹くたびに身を震わせる小十郎を笑いつつ、佐助は聞いてみた。片倉さんてほんと寒い
の苦手だよね、と言うと小十郎は苦く顔をゆがめつつ、うるせェよと肯定する。寒いのが苦手なら暑いほうは大丈夫なのだろうか、
と佐助は思ったが言わなかった。
暑い沖縄で小十郎の隣に居るのは誰だろうかと、吐くたび白く残る息を見ながら思う。
 
(俺じゃあないんだよな)
 
それだけは決定している。
電車がホームに入ってくる音がする。時間は九時過ぎで、一番混んでいる時間帯なので乗れるだけで御の字という混み具合だった。
眉を寄せつつ佐助と小十郎は車両のなかに体を押し込む。
電車のドアが閉まる。
佐助の体はドアに押し付けられてつぶされている。その上から小十郎が覆いかぶさっている。べつに小十郎はどこかの少女漫画のよ
うに腕をついて佐助を庇ったりはしない。べつに佐助もそんなことは望んじゃいないが、すくなくとも気遣えよと思った。小十郎は
佐助にまるで椅子かなにかに座るようにどっしりと寄りかかって動こうとしない。
つぶされながら佐助は呻いた。
 
「・・・おもいー」
「うるせェ。黙ってろ、椅子」
 
やはり椅子だった。
やさしくない。全然やさしくない。でかいし怖いし生真面目だし、返事は短いし何度も言うがやさしくない。触ったらきっと硬くて
ごつごつしててかさかさ乾いてるに違いない。お手入れなんてしてないんだしてたら怖いけど。佐助は押しつぶされつつ思った。小
十郎はどこもかしこも佐助の好みから離れまくってる。
 
(ちくしょー)
 
目を閉じて、吐き捨てる。
諦めよう、と思った。


ひどく間抜けで、しかも不本意極まりない。

















 
 
 
 
 
 
 
 
 
それでもたぶん、これは恋だ。
 







 





五話にして自覚。おっそ。
片倉さんの非道振りがすごいことになっています。そしてあと一話でおしまいです。


空天

2007/02/07
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