困ったなあ、と猿飛佐助は思った。 佐助の主である真田幸村は御年十六。武将として、男として、まさに伸び盛りといった風である。多少、その性質のほ うに諸問題―――暑苦しいとか鬱陶しいとか煩いとか―――はあるにせよ、虎の若子として日の本に名を轟かす若き主 に佐助が感じている不安はなかった。なかなかいい就職先だ。そう思った。 もうすこし給料が高いとなお喜ばしい。 佐助の給料の話はいい。 要するに幸村は男として、特に過不足がない。 ように見えた。
し の ぶ れ ど
あ ま り て な ど か 前 片倉小十郎は腕を組んで、煙管をくるりと回してそれから目の前のしのびに投げつけた。 佐助は飛んできた煙管を二本の指で掴んで、盆の上に置かれた煙草を詰めて火を付けた。煙管を咥えて一吹きしろい煙 を吐き出して、まあまあ落ち着いてくださいな、とへらりと笑う。 「こっちも困り果てて、藁にも縋る思いであんたに頼んでんだぜ。そう無下にしなさんな」 「藁に縋りゃァ、そのまま沈む」 「俺と片倉の旦那の仲じゃないのさ」 「沈め」 小十郎は切り捨てて、立ち上がる。 佐助はぷかりと煙を吐きながら、いいのかなあ、と言った。いいのかなあそんなふうにおれのことみすてて。 立ち上がり、襖を引いて座敷を立ち去ろうとしていた小十郎はその言葉に足を止めた。眉を寄せ、目を細めて振り返る と、武田のしのびは寝転がってにいといやらしく笑みを浮かべている。小十郎は口元を歪めた。このしのびが、こうい う顔をするときは大抵が既にすべての策を終えて、あとはそれを相手に告げるのみというときである。 何が言いたい。小十郎がそう言うと、佐助はかん、と煙管の灰を盆に落として立ち上がり、 「これなぁんだ」 まるで奇術のように、するりと背中から一振りの刀を取り出した。 小十郎はしばらくそれを眺め、それから切れ長の目を見開いた。 「―――てめェッ」 手を伸ばすが、既にそこに佐助は居ない。 天井を仰げば、天板を一枚外してあるところから顔を出して佐助はけらけらと笑っている。横からは先ほどの刀も顔を 覗かせていた。座敷からでは柄しか見えぬが、見間違えるわけもない。 すらりと長い長刀。飾り気のない鞘と柄。 小十郎の愛刀、黒龍である。 ねえ、かたくらのだんな。 佐助は笑いながら言う。 「あんたの大事なこの刀、売り払って鉄屑にしたっていいんだぜ」 佐助の長い指が、嬲るように刀のゆるやかな曲線を撫でる。 小十郎はぎろりと天井裏のしのびを睨み上げるが、しばらくそれを続けてから諦めたように息を吐いた。佐助はそれを 見届けるとすたんと座敷に飛び降りて、刀をくるくると頭上で回しながら、あんたは話が早くてすきだよ、と口角をあ げて言った。小十郎は髪を掻き上げながら、これだからしのびは苦手だぜと吐き捨てる。 けらけらと笑い、佐助は刀を肩に背負う。 「そんじゃ、まぁ」 うちの旦那の筆下ろし、龍の右眼に任せましたぜ。 佐助の言葉に、また小十郎は顔をしかめる。 「―――なんで俺だ」 「だってあんた色々知ってそうじゃない。位が上の遊び女をさ」 「おまえだって相当遊んでんだろうが」 「俺はだって」 しのびはにこりと笑う。 「真田の旦那に軽蔑されたくないもの」 幸村は初心だ。 他人の色恋沙汰を聞くだけで顔を赤らめる男である。まして閨の話などになれば、果たして終わるまで聞いていられる かどうかも危うい。破廉恥だ、と一蹴されて終わりだ。しかも、一月は顔を合わせてもらえない。 俺は真田の旦那の警護がおしごとなんだから、それじゃ困るでしょう。佐助は言い、そして小十郎の顔を見てからにこ りとまた笑う。その点あんたは大丈夫だ。 「いくら軽蔑されても、べつにいいでしょ」 「進んでされたかねェよ」 「俺は進んでされちゃ駄目なんだよ。それに旦那に無視されちゃ俺がさみしいし」 「結局おまえの都合か」 「世の中、てめェの都合じゃなく動いてる奴なんざ居るもんかよ」 けらけら笑って、佐助は肩に背負っていた刀をすらりと抜く。 小十郎は眉を上げた。白刃のいっとう根本に、文字が彫ってある。 佐助はそれを指でなぞって、生涯独眼竜右眼、とそ の文字を揶揄するように戯けて読み上げた。 そして眉をあげてへらりと笑う。 「とびきり上等な女を頼むよ。なんたって、俺の主の最初の女なんだ」 そう言って佐助は消えた。 無論黒龍も消えた。残された小十郎は、天井を仰いで舌打ちをする。 それから深く息を吐いて、首を振った。 いやでござるッ、と逃げだそうとする男の後ろ髪を小十郎は黙って掴んだ。 がくりと首が傾く。ごきんと鈍い骨が軋む音がした。畳の上でのたうち回る真田幸村を見下ろしながら、小十郎は淡々 とまァ落ち着け、と言う。障子越しに見える空は藍に水を垂らしたように薄く暗い。座敷のなかは、行灯のひかりでて らてらと橙に照らされている。 「おまえさんも男だろう。此処まで来て、知らぬ存ぜぬはあんまり腑抜けだとは思わんか」 静かに言うと、首を押さえながらむくりと幸村は起き上がった。 行灯のひかりだけでなく顔が赤らんでいる。 「そ、其は―――片倉殿が、折り入って話があるからと」 「それがこれだ」 「聞いておらぬッ」 「言ってねェからな」 猪口にとくとくと徳利で酒を注ぎながら言う。 からりと襖が開いた。幸村がびくりと体を竦ませる。ちいさな禿が、手を付いて用意整いまして御座いまする、と口上 するのに、小十郎は黙って頷いた。禿は顔を上げ、幼い顔をにこりと笑みで満たす。 「姉様は、片倉様のお出で心よりお待ちしておりました」 「面倒なことを頼んで、拗ねてるんじゃねェか」 「他ならぬ片倉様のお頼み、喜んでお引き受けなさいまして御座います」 「そうか」 「あい」 高い声があいらしく響く。 小十郎はそれに薄く笑んで、もうしばし時をくれるか、と問う。禿はまた高い声であい、と言った。 襖が閉じるのを見届けて幸村のほうへ顔を戻すと、虎の若子は戦の折の具足よりも真っ赤に染まっている。ぎょっとし て小十郎が目を丸めていると、幸村は殆ど泣きそうな顔になって、 「む、むりでござる」 と言う。 何が。首を傾げると、其にはあの禿でも無理でござると消え入りそうな声が言った。 小十郎は思わず吹き出した。 「そう気を張らんでもいい。実際やっちまえばすぐ終わる」 「は、破廉恥でござるッ」 「その破廉恥をしなけりゃァ、子は出来ねェぜ」 幸村は言葉に詰まった。 猪口を傾けて、冷酒を喉に流し込む。幽里は小十郎の馴染みの遊び女で、見目麗しく聡明な、奥州のなかでも三本の指 に入ろうかという傾城である。理不尽なしのびの依頼に、無論適当な女を宛がっても良かったのだけれどそれでは愛刀 が無事に帰ってくるかが危うい。とにかく。小十郎は腕を組んで立ち上がる。 「お膳立てはした。後はてめェでなんとかしな」 小十郎は要するに面倒になっていた。 なんだこいつは。どれだけ初心なんだ。佐助が気に病むのも無理はない。これでは正室を迎えても、初夜に逃走しそう だ。小十郎はおのれの主を思い出した。伊達政宗が正室を迎えたのは目の前の男よりはるかに若い頃であったが、既に その頃には遊び女にも馴染みが居て、小十郎はその手のことに気を病んだ覚えはない。 家風によるものやもしれぬが、それにしても幸村の初心さは希有だ。驚愕に見開かれた大きな目は、たしかに小十郎の ことをなにか汚いもののように見ている風に見える。小十郎は眉をひそめた。良い心地ではないが、仕様がない。 踵を返そうとすると、幸村の手が伸びて小十郎の腕をがしりと掴んだ。 「か、片倉殿」 蚊の鳴くような声が縋り付いてくる。 「なんだ」 「ど―――」 「うん」 「どう、致せばよいのでござるか」 ふいとあげられた顔は、先程の泣きそうなそれではなかった。 ふうん。小十郎は眉をあげ、それからちらりと笑う。ようやっと覚悟を決めたかよ。そう言うと、幸村は顔を強ばらせ たままにそれでも頷いた。其も男でござる、と言う。 小十郎はしばらく黙って、それからまた畳に腰を下ろした。幸村は正座をして、膝に手を置き、身を乗り出すようにし て小十郎の顔を凝視している。腕を組んだまま小十郎も、その顔を見返した。 「まずは」 「う、うむ」 「接吻でもしてやれ」 「せ」 幸村の顔がぽんと赤くなる。 小十郎は苛立ったが、顔には表さないようにした。 「せ―――接吻でござるか」 「後はあっちがやってくれる。幽里は賢い好い女だ」 「か、かたくらどの」 「なんだ」 「その」 「だから」 額に青筋が浮かぶ。 だからなんだ。思いのほか低くなった声に、幸村の赤い顔がすうとしろくなった。 意を決したように息を飲み、幸村は 知らぬのだ、と言う。 小十郎は眉を寄せた。 「何の話だ」 「だ、だから―――接吻の話でござるっ」 「接吻」 「うむ」 「―――おい、まさか」 小十郎は目を見開いた。 「したことが、ねェのか」 呆然としながら問うと、幸村は泣きそうな顔で頷いた。 小十郎は黙った。絶句した、というのがただしい。それから佐助のへらへらとした笑顔を握りつぶしてやりたくなって、 舌打ちをする。そんなことは聞いていない。しのびめ、とつぶやくと幸村は不安げに小十郎の顔を覗き込んだ。 捨てられた子犬のような幸村の視線に、小十郎は息を吐く。どうしたものだろう。 口付けて、吸やァいい。そう言うが、幸村は矢張り泣きそうな顔のままである。小十郎はさすがに不安になった。これ では幽里との床入りの前に、この男は心の臓が止まってしまうのではないか。そうすれば小十郎の愛刀は二度とこの手 のうちには戻ってはこない。あのにやけたしのびによって鉄屑にされる。 それは絶対に避けねばならぬ。 「おい」 「な、なんでござろう」 「ちっと、目ェ閉じな」 幸村は訝しげに眉を寄せる。 小十郎は黙ってぎろりと睨み付けた。慌てて幸村は目を閉じる。てらてらと行灯で橙に染まっているその幼い顔を見な がら、小十郎は息を吐いた。ひどく不本意だが、仕様があるまい。 膝を進め、幸村の肩に手をかけた。見目よりしっかりとしていてすこし驚くが、幼くとも既に日の本に名を轟かす武将 なのだと実感した。まァ政宗様の好敵手だ当然か、と小十郎はすこし複雑に思った。 顔を寄せて、ちいさく囁く。 「俺もしたくてするんじゃねェからな」 幸村の眉が寄った。 何の話でござる。そういう風に動きかけた唇が、動きを止める。 ただしくは、小十郎の唇で止まらされた。 大きな目が見開かれる。 こくん、と幸村の喉が鳴った。小十郎は目をうっすらと開いたままに、厚い下唇を舌でなぞる。 驚きのあまり幸村の唇は緩んでいて、簡単に小十郎の舌の侵入を許した。歯列をなぞると、そこで初めて気付いたよう に幸村が唇を強く引き結ぼうとするが、既に入り込んでいた小十郎の舌を挟み込む感触にまた慌てたように口が開く。 体を離しゃいいんだが。小十郎は幸村がどうしていいか解らずただなすがままになっているのを見てちらりとそう思っ た。初心な虎はそれに気付かぬらしく、ただ大きな目で小十郎を凝視している。 下唇を挟むように口づけると、幸村の眉が寄って、ほう、と息が漏れた。 その隙に更に舌を入れ込んでやる。幸村の舌と小十郎の舌が触れて、ひくりと掴んでいた肩が揺れた。絡め取ると、か すかに甘い味がした。小十郎は口付けながらくつりと笑う。まるで童だ。 しばらく舌を絡めていると、そのうちに幸村のほうからも絡め返してくる。小十郎はかすかに驚き、目を見開く。幸村 はもう目を閉じていて、腕を伸ばして小十郎の首に回してきさえする。鬱陶しかったが、振り払うわけにもいかぬ。放 ておいた。幸村は身を乗り出して、小十郎に更に深く口付けてくる。 「ん―――ふ、ぁ」 首が痛い、と思った。 小十郎は眉を寄せて幸村を押しのけようと胸の辺りにてのひらを置いたが、逆に幸村の手がそれを掴み上げてきてかな わない。座敷のなかに、くちゅくちゅと水音が響いてひどく卑猥に耳をなぶった。 唇を離すと、銀糸がつうと互いの間に伸びた。 幸村はぼうと腑抜けた顔をしている。 唇の端が、唾液で濡れていた。小十郎は手を伸ばしてそれを裾で拭う。それから言う。 「それだけ出来りゃァ、十分だ」 出した声はかすかに掠れていた。 幸村はしばらくぼんやりとしていたが、そのうちに我を取り戻してまた赤くなった。すとん、と手を後ろについて、腰 でも抜けたようになっている。小十郎はちらりと笑い、中々上手かったぜ、と言ってやった。 立ち上がり、襖を開く。控えていた禿に幽里を呼べと命じて、それから座敷を振り返った。幸村はまだ尻を付いて、そ れでも小十郎をじいと見据えている。その目があんまり必死だったので、小十郎は安堵させるように心持ち穏やかな声 で、案ずるより産むが易しだ、と言った。 襖を閉じると、かさり、と衣擦れの音が傍らでした。 見ると、幽里が悠然と控えている。 「お久しう、片倉様」 鈴のような声で、幽里は微笑んだ。 小十郎は頷いて、では頼んだ、となだらかな肩に手を置く。 「不慣れな奴でな。まァ、ゆっくりと相手をしてやってくれ」 「かわいらしいこと」 首をかすかに傾けて幽里は笑う。 しゃらん、と髪に挿された簪が揺れた。それから幽里は目を細めて、片倉様はもうお帰りかえ、と問うた。小十郎はす こし視線を浮かせてから、空いてる女が居ればお願いしようか、とちいさく笑う。幸村との接吻は、思ったより小十郎 の体を火照らせていた。 臈長けた遊び女はすこしだけほおを膨らませ、 「ならば妾がお相手致すものを」 「大事な依頼でな。おまえ以外では務まらん」 「憎いおひとじゃ」 恨めしげに、それでも幽里は笑んだ。 「いっとう上等な座敷を用意させましょうぞ。どうぞごゆるりと」 頭を下げる女に、小十郎は悪いなと苦く笑った。 幽里はしろい手をすいと上げて、左のほおの傷をゆっくりとなぞる。それからにこりと笑んだ。悪いと思うなら、次は 妾と遊んでおくれ。女の言葉に小十郎は目を細め口角をあげ、赤い唇におのれのそれをひとつ落として返事とした。 禿が呼ばれ、小十郎はそれに誘われて歩を進める。背後でからりと襖が開く音がした。 振り返ると、幽里の小袖の裾がするすると座敷に吸い込まれていくのが見えた。 ほう、と息を吐く。 これで終いだ。 小十郎は階段を下りながら、そう思った。
ええっと・・・・・・こじゅ、ゆき?
チガイマスヨ。ゆきこじゅデスヨ。別にこじゅと遊女の絡みが書きたかったワケジャナイデスヨ。 空天 2007/05/23 プラウザを閉じてお戻り下さい。 |