障子を開くと見覚えのある女―――どう見ても俺じゃねェかと小十郎は思った―――の上におそろしく顔 をゆるめた馬鹿面を引っ提げた阿呆が覆い被さっていたので、小十郎は顔を歪めるまでもなく、無表情の まま「歩く」という動詞に許される最大限の速さでそこまで歩み寄り、間抜け面の阿呆を―――固有名詞 で言うところの猿飛佐助を思い切り蹴りつけた。ぎゃあ、と悲鳴があがった。それに続いて、ひい、とも 悲鳴を佐助はあげた。見ると小十郎に蹴りつけられて吹っ飛んだ先の板間に手裏剣がいくつか突き刺さっ ている。振り返ると“佐助”が居ない。 「―――俺様だって触ったことないのにッ」 高い声がしたので視線を座敷に戻すと、体に不釣り合いな巨大な手裏剣を持った“佐助”が、佐助をそれ で斬りつけようとしているところだった。佐助が必死で逃げている。それをちいさな“佐助”がぎょっと するほどつめたい顔で追って、そのうち何処かへ行ってしまった。 なんだか悪い冗談のような光景を身収めた後で、小十郎は視線をようやっと布団の上に向けた。 「猿飛が」 ふたり居たようだったが。 布団の上にまだ寝転んでいる女は、そうつぶやいた。 「気のせいか」 「気のせいじゃねェだろう」 「じゃ、夢か」 「そうでもねェようだぜ」 「ふむ」 女は首を傾げながら起き上がり、小十郎を見上げた。それから幾度か目を瞬かせる。小十郎は首を竦めた。 「どうも、おかしなことになってるらしいな」 「おまえは」 「おう」 「俺か」 「もっとも、男の、な」 小十郎はそう言って、座り込んだ。“小十郎”のほうはぼんやりと小十郎を眺めている。佐助のせいだと 思われるはだけた襦袢を見て、小十郎は眉を寄せた。自分の顔に胸がついているというのも不思議なもの だ。あまり見ていてたのしいものでもない。手を伸ばして襟を整える。“小十郎”はされるがままになっ ている。まだ眠いのかもしれない。 しばらくしてから、じゃァあの猿飛は男か、と“小十郎”が言った。 「あァ。何かされたか、あの阿呆に」 「何か」 「あァ」 「何かって、なんだ」 小十郎は黙り込んだ。 “小十郎”のほうは、特におかしなことを聞いたというふうもない。純粋に問うているようだった。ほん とうに解っていないらしい。小十郎は黙ったまま考え込んでしまった。どうやら目の前の女は自分である。 それを考慮に入れた上でも、小十郎は考えないわけにはいかなかった。胸をはだけられて男に乗られて、 それで何をされるか解らない女というのは一般的に言って「馬鹿」というものに分類されてしまうのでは ないだろうか、と。 思ったが、そうは言わず、小十郎は話を変えることにした。 「女の方は、ちいさいな」 「猿飛か。うん、そうだな。ちいさい」 “小十郎”はすこし笑った。 それから言う。 「ちいさくて、それでかわいらしいだろう」 小十郎は黙った。 “小十郎”はまだ眠いらしいぼんやりとした様子で、ちいさくて、うるさくて、いいだろうあれは、と平 気な顔で言う。小十郎は視線を逸らした。なんだか腹の辺りの調子が狂うようだ。矢張り見ていられない。 男女の差異があるだけで、こんなに人間は変わるものだろうか。 猿飛佐助がかわいらしい。 吐き気がする、と小十郎は心底から思った。 “小十郎”はそういう小十郎には一向に構っていない。立ち上がり、首を慣らして、伸びなどをしている。 仕事は、と問われるので、今日は特にないと小十郎は答えた。おかげで問題が解決するまでは特に誰と顔 を合わせなくとも済まされる。不幸中の幸いというところだ。 “小十郎”に小袖と袴を貸してやり、―――十年前のものがぴたりと合った―――どこかに消えたふたり の佐助を待ってぼんやりと茶を飲む。ぱちぱちと火鉢が爆ぜている。小十郎と“小十郎”はほとんど体の 大きさは変わらないようだった。多少小十郎のほうが横に広い程度である。 とても“小十郎”は女には見えない。 遅いな、と“小十郎”が言うので小十郎は頷いた。 「どこまで行ってんだかな、あの阿呆どもは」 「さァな。第一、どうして猿飛は猿飛を追いかけているんだ」 「うちのところの阿呆が、おまえさんに阿呆なことを仕掛けていたからだろう」 「ふうん」 “小十郎”は湯飲みを持ち上げ、閉じられた障子をぼんやりと眺めている。仲が良いんだな、と小十郎は なんとなく言ってみた。逆の展開を考えてみた場合、佐助のほうが“佐助”を追い回すかと言えばそれは ないような気がした。腹を抱えて笑うか、混じるか、まあどちらかだろう。 「そうだな」 それはなんとなく言った言葉だった。 “小十郎”の「そうだな」に、だから小十郎はとても驚いてしまった。 「友人だ。多分、女ではひとりきりの」 “小十郎”は嬉しそうにそう言った。その「嬉しそう」の部分はほのかであったので、他人から見れば常 とおんなじ仏頂面であったかもしれないけれども、あいにく小十郎は他ならぬ自分自身のことだったので、 それこそ手に取るように解ってしまった。 それでまたひどく微妙な心地になってしまった。 「そりゃ、何よりだ」 取り敢えず、そう言っておいた。 「死ねッ」 「ちょ、っと、お嬢ちゃん、勘弁してくれよっ」 「死ね死ね死ねッ、もう、右目の旦那に何したんだよあんたッ、馬鹿ッ、死んじまえッ」 俺だって俺だって、俺だって触ったことないのに。 後ろからぎゃあぎゃあと煩い女が追いかけてくる。凄く佐助に似ている。多分自分なんだろう、と佐助 は思った。小十郎がふたり居るんだから、自分がふたり居ても不思議ではないわけではないが理屈とし ては居てもおかしくない。 “佐助”は激しく憤っている。 「な、ンもしてねえよっ」 手裏剣を避けて、小十郎の屋敷の屋根に飛び移る。もちろん“佐助”も簡単に飛び移ってくる。有能で あることも時には面倒だと佐助はうんざりと思った。手裏剣の軌道の正確さったらない。なんて俺様は すぐれた忍なんだろう、実際の話。 死んじゃいそうだ。 「なんもしてないって、すぐに君らが来たんじゃないのさッ」 「嘘だね、右目の旦那の胸見えてたじゃんッ、馬鹿馬鹿馬鹿ッ」 「だっててっきり右目の旦那だと、―――いや、あの、こっちの右目の旦那だと思ったンだよッ」 そう叫ぶと、“佐助”の動きがぴたりと止まった。 「―――なんだって?」 ちいさい体が小刻みに震えている。 佐助は眉を寄せ、“佐助”を凝視する。しろい顔が赤らんでいる。 「どうしたの?」 「そ、―――それって、」 「うん」 「それって、」 あんたらって、と“佐助”はちいさなちいさな声を唇からこぼした。佐助は首を傾げる。“佐助”は ほおを染めている。耳もすこし赤い。我ながらかわいいなあ、と佐助はぼんやりと思った。 あんたらもしかして出来てるの、としばらくしてから“佐助”は幾分上擦った声で問うた。佐助はま た目を瞬かせ、首を傾げた。 「そっちは違うの?」 「―――ッ」 “佐助”は息を飲んで顔を真っ赤にして、それからまた固まった。 ぶんぶんと首を振る。顔はおそろしく赤い。赤茄子のようだ、と佐助は思った。ちいさい生き物がな にやら激しく動いているのは、佐助の心をそこはかとなく温もらせた。かわいいなあ、と佐助はまた 思った。俺ってかわいいなあ、ほんと。 「一緒に寝てるのに、そういうんじゃないの」 「い、一緒になんて寝てない」 「でも右目の―――女のほうの旦那、寝惚けて俺に抱きついてきたけど」 「嘘ッ、なんでッ、俺にしてよッ」 「いや、知らねえけど」 佐助は髪を掻いて、“佐助”を眺めた。 どうやらあちらのふたりは“佐助”の片思いらしい。なんだかそれも癪だけれども、仕様がない。そ うなのだから。しかし女が女に片思いというのも不毛だ。男が男に片思いするのとおなじくらいか、 あるいはもっと。だって体を繋げようがないよなあ、と佐助は下世話なことを考えながら“佐助”を 改めて眺める。“佐助”はまだ顔を赤くしてあわあわと慌てている。かわいい。こんなにかわいいの に、“小十郎”は報いてくれないのだろうか。あるいは男と違って貞操観念があるのかもしれない。 小十郎だったら、こんなかわいらしい生き物が自分を好きだと言ったらすぐさまに物にするだろうと 佐助は思った。なにしろ男の佐助でも構わないのだから、あの男は。 「右目の旦那は、構ってくれない?」 なんだかかわいそうになってしまった。 “佐助”は顔を赤くしたまま、首を左右に振る。 「そんなことは、ないよ」 「恋人同士じゃないんだろ」 ぶんぶんと“佐助”は首を振る。もげてしまいそうだ。 「そんなんじゃないから、べつに」 「ふうん―――じゃ」 「うん」 「ともだち?」 首を傾げると、“佐助”はすこし戸惑うように視線をさまよわせ、それから頷きかけて結局首を振っ た。わかんない、と言う。 「そうだったら―――いいなとは、思うけど」 わかんない、と“佐助”は繰り返した。 佐助はすこし考えてから手を伸ばし、“佐助”の髪をくしゃくしゃと撫でた。なんだよと“佐助”が 言う。いやなんとなく、と佐助は答えた。いやなんとなくかわいくってつい。 “佐助”はすこしぼんやりと佐助を見上げてから、へらりと笑った。 「自画自賛」 「まさに」 顔を見合わせて、ふたりはくすぐったそうにしばらく隠った笑い声を立てた。 次 |