始まりは十月の、ひどく風の強い正午だった。 眠気と食い気がせめぎ合う四時間目が終わって、伸びをして眠気の方だけ吹き飛ばしてから、さあ弁当だと鞄の中を探っ ていたら谷口から呼びかけられた。一緒に弁当を食べようという誘いだろうと顔をそちらに向けると、谷口はくい、と親 指を教室の入り口の方へと向けている。それを辿って視線を動かし、キョンはすこしだけ眉を寄せた。 「こんにちは」 「―――お、う」 にこりと窓の外の秋晴れのように爽やかな笑顔を貼り付けて、はるか彼方のクラスに所属する筈の古泉一樹がそこに立っ ていた。肩には学生鞄が掛けられている。早引けだろうかと首を傾げつつ、キョンはどうしたのかと聞いた。古泉はやは り笑いながら、もしあなたの方に異存かご予定が無ければという仮定の下なのですが、とこれが昭和なら卓袱台をひっく り返したくなるような回りくどい台詞を一息に言って、 「昼食をご一緒しませんか」 と、ひょいと学生鞄が掛かっているほうの肩を上げた。 キョンはしばらくの間ぽけ、と呆けた顔をさらしてから、誰が、と聞いた。 古泉はにこりと笑って、あなたが、と返す。 誰と。 僕と。 「俺と、おまえ、が」 「ええ」 「飯を」 「はい」 「―――食うのか」 「生憎食事に対して食べるという行為以外のアプローチを僕は知りませんから、ご満足していただけないかもしれません が僕が提案できるのはそれだけですね」 古泉は首を傾げてやはり笑う。 キョンは目の前のきらきらとやたらに眩い同級生を無言で眺めながら、どうしようかと思った。まだ谷口たちと約束をし たわけではないから、予定があるということにはならない。 が、意味が分からない、と思った。 古泉一樹は、他人と呼ぶにはあまりに色々な経験を共にしてしまっているが、友人と呼ぶにはあまりに扱いに困る存在だ った。涼宮ハルヒが居なければ、きっとキョンのような人間と古泉のような人間が関わることは万に一つもなかっただろ うと確信できる。付き合いはもう短くはないが、キョンはこの男が敬語以外の言葉を発するのを聞いたことがない。時々 これは敬語ではなくて、相手を馬鹿にする言葉をオブラートに包む為の一種のスキルなのではないかと思うほどに古泉一 樹は頑なに敬語を使う。そして大抵それはキョンを苛立たせる。 古泉一樹をきらいだ、と断言することをキョンはためらうけれど、勿論すきだとは言えないし、煎じ詰めれば苛立たしい 存在だというところが一番落ち着いた結論になる。 「もう先約がありましたか」 キョンの顔を覗き込みながら古泉が聞く。 うう、とキョンは呻いた。先約はない。ないが、古泉と一緒に弁当を食べるという行為はあまり進んでやりたい行為では なかった。そしてその理由がよくわからないということが、いやだった。 古泉は苛立たしいが、わるい人間ではない。 それを知って、理由もなく誘いを断るのは小心者のキョンにはあまりに心の負担が大きい。十秒程呻いてから、蚊の鳴く ような声でキョンはねェよと言った。古泉はにこりと目を細めて、それでは中庭に行きましょうかと言う。キョンは顔を しかめた。 窓の外では、乾いた風に木の葉が舞い上がって、校庭の砂は螺旋のように景色をぼやかしている。 「外かよ」 「ええ」 「教室でいいじゃねえか」 「そこでは集中できないでしょう」 もう古泉は歩き始めている。 キョンはしばらく目を細めてその背中を恨めしげに眺めていたが、そのうち諦めたように息を吐いてから学生鞄を掴んで、 すこし小走りで古泉の後を追った。 ゼ ロ を 始 め る 古泉一樹が最近おかしい。 キョンは朝比奈みくるが入れてくれたお茶を飲みながら、正面に坐っている古泉を見ないように視線をボードゲームに落 とした。キョンが負けている。しかし後一歩、と言ったところだ。今日初めて古泉が持ってきたゲームだが、後一度やれ ばキョンが勝つ。 絶望的にゲームの弱い同級生は、危なかったな、とすこしも危なげのない口調で笑っている。ここで完膚無きまでに叩き のめしてやってもいいのだけれど、古泉のつまらないところはそうしたところで一切表情を変えないところだ。キョンは 自分の駒をくるりとボードの上で回してから、飽きたから他のだ、と顔を上げた。 「何にしましょう」 「なんでもいいけどよ。適当におまえが選んでくれ」 「―――良くない、ところですね」 急に低くなった古泉の声に、キョンは首を傾げる。 見れば常に笑顔が張り付いている古泉の顔が、珍しく真剣なそれになっていた。ボードゲームの駒をかちゃかちゃと片付 けながら、ひどく冷たい声で古泉は言い放った。 僕はあまりあなたのそういう言動を好みません。 「人に何もかもを任せて、自分は常に傍観者のような顔をしている。それでいて巻き込まれれば文句を言うのでしょう。 そういった態度が悪いと言う資格は僕にはありませんが、個人的感情から言えば」 卑怯ですね。 古泉はそう言って、かちゃん、と最後の駒をケースに収めた。 横でみくるがお盆を抱えてうろうろと戸惑っている。古泉は立ち上がって棚にボードゲームを片付けようとしていた。 キョンはぽかんと口を開けて、しばらくの間もう誰も居なくなった空間をぼんやりと眺めた。 古泉が居なくなって、向こう側の長門有希が見えるようになっている。丁度長門が本のページを三枚捲ったあたりでよう やく腹が立ってきた。体の向きは変えないままで、腕を伸ばしてがしりと古泉の腕を掴む。どうしましたかと平然とした 声が返ってきて、キョンは腸が煮えくりかえるというのはこれを言うのだと思った。 感情のいろが出ないように、できるだけ淡々と言った。 「随分と参考になるアドバイスだ」 「そう思って頂けたなら幸いです」 「俺だけってのは不公平だからな、俺も常々おまえに対して是非言ってやりたいと思ってたことがあるから言ってやろう」 「実に興味深いですね」 くつりと古泉の声に笑いが含まれる。 思わず腕を掴んでいたてのひらに力が入る。おそらくは爪が食い込んでいると思うのだけれど、古泉から痛みを訴えるよ うな呻きは零れてこなかった。 「俺はおまえの嘘くさい笑顔を見てると、吐き気がする」 キョンはそう言って、古泉の腕を振り払った。 思ったよりも強く振り払ってしまったようで、がたん、と音がした。ハルヒの机に古泉がぶつかった音だろう、と視線を 動かさずに思う。地顔ですよと古泉が笑った。そうかよとキョンは吐き捨てる。 キョン君、とみくるのかぼそい声がした。 「け、けんかは駄目ですよぅ」 「―――すいません」 キョンはみくるにちいさく笑いかけて、がたんと席を立った。 そのまま部室を出ようとすると、その前にがちゃりとドアが開いた。 涼宮ハルヒが思い切りよくドアを叩きつけて、あらキョン随分と不景気な顔してるじゃないのと笑う。 キョンはそれに顔をしかめて、そうだよバブルが弾けたんだと言い捨ててからまたドアから出ようとしたが、ハルヒの腕 がするりと絡みついてきたのでそれは叶わなかった。 ぐいぐいとキョンを引きずりながらハルヒは言う。 「馬鹿ね、何年前の話をしてんのよ。今や馬鹿みたいに高い都内のマンションが売れに売れる時代よ。 日本企業の破竹の勢いは止まることを知らないんだから!新聞くらい読みなさいよ」 「そりゃ勝ち組の話だ。おまえこそ本を読め。 格差は確実に広がって年収が三百万以内でひいひい言ってるサラリーマンがいかに多いか知らんのか」 「知らないわよ」 さらりとハルヒは言って、過去やら下層部見てどうするのよ上と未来を見なさいねえそうよね古泉君、と視線を古泉にや った。 「仰る通りです」 返ってくる穏やかな声に、キョンは思い切り顔をしかめた。 ぎぎぎ、と油の切れかけた自転車のチェーンのような音をたてて、ゆっくりと振り返る。古泉はさっきまでの顔はどこに やりやがった四次元ポケットかちくしょう、と言いたくなるような涼しげな笑顔を浮かべて、もういつもの定位置のパイ プ椅子に腰掛けている。 まったくこれだから負け組予備軍は困るのよとハルヒは言いながらぽいとキョンを放り投げて、自分の席へ向かう。キョ ンは今更部室を出るわけにも行かず、それでも古泉の傍に寄るのがいやだったのでポケットに手を突っ込んで仏頂面をさ らしながらドアに背中をもたれさせた。 みくるが弱々しい笑顔を浮かべる。 「な、仲直りしましょう。ね、ね」 その笑顔はさながら磔にされた我が子イエスを見上げる聖母マリアのごとくの慈愛と悲哀とがまぜこぜになったひどく切 なげなものだったが、残念ながらキョンにはそれを存分に堪能する心の余裕がなかった。 席に着いて、パソコンを起動させたハルヒの眉がひょいと上がる。 「仲直りって―――誰か、喧嘩でもしてんの」 「えぇっと、そんな、そういうわけじゃあ」 あわあわとみくるがお盆を持ったままうろうろする。 ハルヒはみくるを無視して、長門のほうへ顔を向け、誰と誰が喧嘩してんのよと言う。長門はちらりと顔を上げ、それか らキョンのほうへ視線をやった。 灰色の硝子玉にひたりと焦点を合わせられて、すこしだけ心臓が飛び上がる。 ハルヒの三白眼までじとりとこちらを向くので、キョンは喧嘩なんかしてねえよと視線を床に落とした。 「いきなりそこに坐った副団長殿が、いちゃもんをつけてきなさっただけだよ」 「古泉君が?あんたじゃなくて?」 「何で俺がそんなめんどくせェことしなければいかんのだ。理由ならそいつに聞け。俺は知らんぞ」 腕を組んで吐き捨てる。 ハルヒはすこし戸惑った視線を古泉に向けた。それに古泉は嫌味なほどに整った笑顔を向けて、席を立ってすたすたとキ ョンのほうへ歩み寄る。一歩体をずらしたが、狭い部室のなかで鬼ごっこをするのもあほらしいのでそのままの場所で、 キョンはただ古泉を睨み付けた。 すぐ隣まで寄った古泉は、にこりと笑って、 「申し訳ありませんでした」 すいと左手を差し出した。 キョンはじいと差し出された手を凝視する。眉を寄せて親の敵のようにしろくて細い指を眺めていたら、ばしんと音を立 てて机を叩きつけ、ハルヒが立ち上がった。 「まどろっこしいわね!とっとと仲直りでもなんでもしなさいよ!」 「けんかは良くないですよ、ね、キョン君」 みくるもそれに続ける。 キョンは口元を歪めて、ついと顔を上げた。古泉は相変わらずにこにこと笑っている。 すこしだけ眉を下げて、不愉快な言動をしてしまって申し訳ありません、今言った言葉は感情的になるあまり出てしまっ た言ってみれば言葉の綾であって僕の本心ではありませんから――― 「許していただけますか」 そこまで言われて許さなかったらどこまで外道だ。 気付けば長門もこちらを見ている。大きな目が三人分こっちを凝視していて、なおかつ目の前の古泉の縋るような目もキ ョンを向いている。キョンは唸って、手を一旦上げて、それから髪を掻いて、それでも四人分の視線が動かないので諦め たように息を吐いてから古泉の手を握った。 「ゆ、る―――さん、こともない」 「ありがとうございます」 ぎゅ、と強く手が握られた。 仲直りですねっ、とみくるが笑う。まったく面倒ねえとハルヒが安堵したように息を吐いた。長門はもう本に視線を落と している。 ええ仲直りですと古泉は笑った。 「次はオセロでよろしいですか」 見ればもう机の上にはオセロが置いてある。 キョンはおいこらと目を細めた。さっきまでの動きを振り返ってみると、古泉がオセロを取り出すことができたのはキョ ンが古泉の腕を掴む前だけで、ということさっきのはなんなのだ。 キョンが低く唸ると、鞄の中をごそごそと探っていた古泉が顔を上げた。手にはメモ帳らしきものが握られている。 「おまえ、なんのつもりだ」 「何のつもりか、と言いますと」 「なんで喧嘩ふっかけてきやがった、しかも」 その気もねえくせに。 古泉はメモ帳を開いて何か書き付けながら、ぱちくりと目を瞬かせてからいえこれが次のステップでしたのでと笑う。 キョンは眉を寄せて口元を歪ませて、ずんずんと古泉に近寄ってそのメモ帳を奪い取った。 「―――なんだこりゃ」 顔を上げると、古泉は困ったように笑って手を差し出した。 それにメモ帳を投げ捨てるように叩きつけて、キョンは半目で古泉を睨む。 「その夥しいチェック項目は一体なんだ」 「僕のプライバシーに関わる問題なので、返答はしかねますね」 「プライバシーだとぉ」 キョンは素っ頓狂な声を出した。 またがしりとメモ帳を取り上げて、古泉の鼻先に突きつける。 「これの、どこが、プライバシーだっ」 メモ帳には、物凄い数の項目が並べられていた。 一緒に登下校、一緒に昼食、一緒にゲーム、一緒に喫茶店―――延々と書き連ねられたそれの二ページ目の真ん中あたり に「喧嘩」と「仲直り」という項目がある。 そしてそれの横には赤でチェックがしてあった。 古泉はやはり困ったように眉を下げて、キョンからメモ帳を取り上げる。 それを鞄にしまいながら、もう少ししたらお話ししますよと言う。 「まだその段階ではありませんので」 段階ってなんだよ。 キョンは叫んでやりたくなったけれど、みくるが不安そうに視線を送ってくるのと、ハルヒが苛々とあんた女々しいわね と言うのが鬱陶しかったので、すこしだけ乱暴にパイプ椅子を引いて舌打ちをするに止めた。 かたんかたんと古泉がオセロを並べる。 ほんとにやるのか、とキョンは怒るのを一瞬忘れて心底から呆れた。 次 |