涼宮ハルヒは普通の女だ。 勿論素っ頓狂で電波で迷惑で俺様で我が儘であることに対してひとことの異存もありはしないのだけれど、普通にあの女 は悩むし腹も減るだろうしなにかを見てたのしくなったり優しいきもちになったり、勿論かなしくなったりもする。 特別ではない。 キョンにとってハルヒは大事な―――言うのは恥ずかしいので絶対に言わないけれども―――部活のメンバーであるとい う以上の特別ではない。 だから古泉のきもちは一切わからない。 誰かが自分の根源を支配しているというのは、一体どんな気分なのだろうかと想像しないこともない。ただしてみても、 三十分くらいで飽きる。理由は勿論簡単で、キョンはキョンであって、古泉一樹ではありえないからだ。 これは三十秒も考えなくたってすぐわかる。 残りの二十九分三十秒のあいだ、キョンはただ古泉のことを考える。 時々それにメモ帳のことも入ってくる。 最後の項目は何なんだと聞いてみたら、古泉はなぜか両腕を開いてにこりと笑った。 キョンが眉を寄せて思い切り軽蔑した視線を向けると、 「『感動の抱擁』です」 と、またぐぐ、と腕を拡げた。 キョンも倣うように腕を拡げ、古泉の長い指の先端を掴んでぐぐぐ、と閉じさせる。 何に感動するんだよと呆れて聞いたら、そうですねえと古泉も首を傾げている。それから今度映画にでも行きましょうか と聞いてきたので、俺は映画で泣いても隣の席のやつに抱きついたりはしないぞとちゃんと言ってやった。 映画はそんなに好んで行くわけではないが、勿論きらいではない。 だから誘われれば断る理由がなかった。 「泣かねえぞ。泣いてもおまえには絶対抱きつかんぞ」 何度も言ってやったというのに、古泉はそれとこれとはまた別問題ですからと笑うだけで、だから四回目に言われたとき にとうとうキョンは根負けしてわかったよと答えてしまった。 嫌がらせのように見る映画はあからさまに娯楽アクション物にしてやったが、古泉は顔色ひとつ変えずでは日曜日にと言 うだけだった。つまらん、とキョンは舌打ちをした。がっかりしてみるくらいの愛想はあってもいいと思う。 日曜日は晴れていて、それでも一月なので太陽の熱よりも風の冷たさのほうが染み渡るように体に入り込んでくる。 映画館は混み合っていた。 なにもかもを古泉に任せたキョンは、人混みを避けてベンチに腰掛けながらポップコーンをぽりぽりと食べる。目の前を 同年代だと思われる男子ふたりが笑いながら通り過ぎていくのをぼんやりと眺めた。 端から見れば古泉とキョンもああいうふうに見えるのだろうかと思ったら、急にポップコーンが不味くなった。人の間を ぬって古泉が近寄ってくる。 「ここに居たんですね。探してしまいました」 「そうかよ。チケットは」 「取れましたよ。少々奥でしたが」 「いいよ。後ろのほうが良く見えんだろ」 ポップコーンとコーラの入った紙コップを抱えて立ち上がる。 すい、と古泉の手が伸びてキョンの空いている手を取った。 眉を寄せるとはぐれますから、と笑われる。キョンは口元を歪めて俺は幼稚園児かと言おうとして、止めた。黙って古泉 の手に引かれるままに歩く。歩きながら、できるだけ早く終わらせてしまうのが一番だよなと自分で自分に確認した。 キョンは例のメモ帳の項目のなかに、『手を繋ぐ』というのがあったのを覚えている。 今日帰ったあとか、もしくは今もあれを古泉が持っているのならば席に着いたときにその文章の横に赤いチェックがされ るのだろう。 そうすると、古泉がキョンから解放される日がまた近づく。 もう、かわいそうだからとっとと終わりにしてやりたいとキョンは思う。 古泉一樹が切実に大事にしているのは勿論涼宮ハルヒだというのに、大事で大事でしょうがないのでその周辺まで気を配 った結果、ちょっと本末転倒ではないでしょうかと言ってやりたくなるほどに古泉は最近キョンにかかりきりだ。 勿論ハルヒのことを気にかけているのは殆ど古泉にとっては呼吸とおなじなので欠かすことはないけれど、その呼吸を何 秒かでも止めてキョンのほうへ気を回している姿を見ると小心者の常で申し訳なくなる。 それがまたいやだ。どうして古泉のことで俺が申し訳ながらねばならんのだとキョンはひどく不愉快なきもちになる。 もういいぞ、と言ってやりたい。 もういいそおれのことは。 「ああ、ここですね」 気付くともう席だった。 中央右寄り、やや後ろ。いい席だ。 座り込んでLサイズのポップコーンを腕の中に閉じこめた。割り勘で買ったので古泉にも食べる権利はあるはずだが、な んとなく癪なので隠してみる。古泉は横でパンフレットに視線を落としていた。 「おまえは映画の前にパンフレット見る派か」 「そうですね。予備知識は多少欲しいと思いますので」 「つまんなくねえか、それ」 「僕は未知の世界を知る胸の高鳴りより、どちらかと言えば平穏な日常を愛する平々凡々な男ですから」 「そりゃあ、俺もだが」 ポップコーンに寄りかかりながらキョンはまあおまえらしいかなと言った。 キョンはパンフレットを見ない。べつにそれは未知の世界を知る胸の高鳴りを得るためではなく、パンフレットの代金を 浮かすためというもうすこし切実な理由からだった。 映画は二時間とちょっとで終わった。 面白かった、とは思う。でもたぶん一年後にはどういう内容だったか忘れているか、直前の予告でやっていたおなじよう なアクション物と一緒くたになってストーリーを正確には思い出せなくなっているだろうとキョンは思った。 伸びをしようと腕を伸ばしたら、古泉に横からポップコーンを奪われた。 からからと揺らしてどれだけ入っているか確認している。 さすがにLサイズをひとりで食べるのはきつかったので、半分ほどは残っていた。 やるよ、と言ったら元から僕のでもあったので有り難く頂きますと返ってきた。だったら映画が始まる前に言えばよかっ たんだとキョンは思った。 古泉がポップコーンを食べている横で、キョンは腕を伸ばしたり縮めたりする。 ほとんど観客は居なくなっていた。 ぽり、とポップコーンを囓る音だけが館内に響く。 「感動の抱擁は望めん映画だったな」 ぶらぶらと手を振りながら言ってみる。 横を見ると、古泉が不思議そうな顔で目を瞬かせていた。目を細めてなんだよと言うと、何の話ですかと逆に聞かれた。 「『映画に行く』ってのが、項目にあったんだろ」 「項目」 「そうだよ。なんだおまえ、寝てたのか」 「項目―――ああ」 ぽん、と手を打って古泉が頷く。 「今日はそれとは別ですから、忘れていました」 そう言って、古泉はポップコーンをキョンのほうへ向けて、おひとついかがですかと続ける。キョンは腕を突っ込んでポ ップコーンを鷲掴みにして、口に押し込んでからはあ、と間の抜けた声を出した。 べつってなんだよ、とつぶやく。 古泉はにこりと笑う。 「今日は僕のプライベートな願望によって、あなたをお誘いしたということです」 「ちがいが、わからん」 古泉なのかメモ帳なのか。 嘘かほんとうか。ちょっとちがう。義務か権利か。いやちがうだろうとキョンは思った。 二項対立にすればいいってことじゃない。 「それは重要でしょうか。でしたら今後は逐一ご説明してもかまいませんが」 「いや―――べつに」 キョンは首を振った。 縦に。 「それはどちらの意思表示なのか解りかねますが」 古泉が困ったように笑う。 キョンは黙った。黙ってぐい、とポップコーンを奪い取り、席を立つ。態とらしく足音を踏みならして階段を下りて出口 に向かおうとしたら、腕を古泉に掴まれた。振り返って睨み付けてやったら、やはり古泉は困ったように笑う。 どうしましたかと聞かれた。 「なんも」 「急に置いてきぼりは困りますね」 「そろそろ次の客が来んぞ。いつまでもここに居るわけにもいかねえだろうよ。つーか離せ気色悪い」 言いながら、どうやら自分は苛ついているらしいということに思い当たってキョンは地味に驚いた。 キョンの腕を掴んでいる古泉の腕はそんなに太くはない。肩幅も大して広いわけではないし、身長はすこしキョンより高 いが、それでも高校生としては平均よりやや高めというだけにすぎない。 それでいいじゃないかと思う。 古泉はすこしおかしくて、奇妙で、それでもただの高校生でまあキョンの友人ということにしてやってもいい。それでい いじゃないか。特別なんて糞喰らえだ。 こんなに普通の男が、世界の破滅なんてどうしようもないことを考えて日々生きているのかと思うとぞっとする。 古泉は今日キョンと一緒に居るのは、自分の願望だと言う。けれどそれは、ほんとうだろうか。 ほんとうだと誰が保障してくれると言うのか。 「古泉」 「なんです」 キョンはしばらく黙ってから、古泉の腕を振り払った。 そして階段をふたつ登って、古泉のすこし上に立つ。不思議そうに見上げてくる同級生のきれいな顔を見て、くしゃりと 顔を歪めて笑いに似た表情を作った。 それから肩を掴んで抱き寄せた。 古泉の顎がキョンの肩にこつんと当たった。 ひゅう、と息を飲む音がした。古泉の髪からはシャンプーのにおいと、それからポップコーンの香ばしいにおいがする。 キョンはきっちり五秒数えてから、どん、と押して体を離した。 「フィニッシュだ」 そして笑った。 「良かったな。『感動の抱擁』も見事完遂だ。これで晴れて俺とおまえは名実ともに“友人”だぜ」 ぱちぱち、と拍手をしてやる。 誰も居ない館内に、間の抜けたそのぱちぱちという音だけが響いている。ぼうとこちらも間の抜けた顔をさらしていた古 泉は、ふと気付いたように目を開いて、それから躊躇いがちにそれでも笑った。 「ご協力していただけた、ということでしょうか」 「そういうことだ。ボランティア精神に関してはかなり俺は自信があるんでな。感謝していいぞ」 「痛み入ります」 「昼はおまえがおごれ」 「喜んで」 「ラーメンがいい。最近食ってねえんだ」 ぴょん、と階段を三段飛び降りる。 古泉を振り返る。やはり笑っていた。キョンもすこしだけ笑った。 メモ帳はこれで完成されるわけだ。 よかったな、と思う。 もう古泉が息を止めて、キョンのことを気にすることはなくなる。「もしも」のことがあったら勿論協力してやろう、と 思う。そのために古泉はあんな馬鹿みたいなメモ帳を律儀に四ヶ月もつけていたのだ。 赤で埋まったメモ帳を想像してみる。 そしてその横に喜んでいる古泉を置いてみた。そうしたら思いのほかその映像はキョンの胸のあたりをざわざわと騒がせ てしまったので―――顔を逸らす。 それはなんだか、ひどくかなしい風景のようだった。 どうしましたかと古泉が聞いてくる。 なんでもねえよとキョンは答えた。 次 |